故橋本龍太郎氏が取り組んだ政策で、特にこだわりが強かったのは沖縄問題だった。95年9月、橋本氏が自民党総裁に就任する直前に沖縄県内で起きた米兵の少女暴行事件が、橋本氏に沖縄米軍基地問題の解決を決意させたと言われる。首相就任早々、米軍普天間飛行場の返還をクリントン米大統領(当時)と電撃的に合意したが、その後移設先の条件をめぐって迷走、政府と沖縄県の間でようやく基本合意が成立したのは今年5月。米側との合意から10年が経過し、沖縄問題の主導権は小泉純一郎首相らに移っていた。
沖縄問題に対するこだわりは、実の父親のように慕った故佐藤栄作元首相の影響が大きい。佐藤氏は首相就任後の65年に米軍統治下の沖縄を訪問した際に「沖縄が返ってこない限り、我が国の戦後は終わらない」と明言、秘密交渉を繰り返したうえに政権在任中に沖縄返還を成し遂げた。
橋本氏は首相就任直後の96年1月23日に会談した大田昌秀沖縄県知事(当時)から「普天間飛行場の返還が一番の要望」と聞かされ、外務省の田中均北米局審議官(当時、後に外務審議官)らごくわずかのメンバーで米側と極秘交渉を開始する。同年2月、米サンタモニカでクリントン大統領と会談した橋本氏は、普天間の返還要求をぶつけ、公式に交渉のテーブルにつけた。
同年4月に来日した大統領との間で普天間飛行場返還を合意し、「日米安保の再定義」を掲げる共同宣言を発表した時が、「橋本政治」の絶頂期だったと言えるだろう。その後も梶山静六官房長官(当時)らと「駐留軍用地特別措置法(沖縄特措法)」の改正に取り組んだ。
政権を離れた後も橋本氏は「沖縄」への関心を持ち続けた。森政権では沖縄担当相に就任、小泉政権下でも自民党沖縄振興委員長に就任した。特に委員長人事は橋本氏のたっての意向と言われたが、首相・総裁経験者が政調会の下部機関の長になる異例の人事でもあった。しかし、沖縄問題にさほど熱心でなかったと言われる小泉首相の時代に返還実現の道筋がついたことに徒労感も覚えていたようだ。【中川佳昭、西田進一郎】
◆橋本龍太郎元首相の足跡◆
1937・7 東京都に生まれる
60・3 慶応大法学部政治学科卒業
63・11 衆院議員に初当選
78・12 第1次大平内閣の厚相として初入閣
85・2 竹下登元首相の「創政会」旗揚げに参加
86・7 第3次中曽根内閣の運輸相
87・11 自民党幹事長代理(竹下内閣)
89・6 自民党幹事長(宇野内閣)
・8 海部内閣の蔵相
91・10 蔵相を辞任
92・12 竹下派分裂。小渕派に所属
93・8 党政調会長就任(7月に自民が野党転落)
94・6 村山内閣の通産相
95・9 総裁選で小泉純一郎氏を破り総裁に
96・1 村山富市首相退陣で、第82代首相に就任
・4 クリントン米大統領と沖縄の米軍普天間飛行場 の返還合意
98・7 参院選に大敗。責任をとり首相辞任
00・7 小渕派の後を受けた橋本派会長に就任
・12 第2次森改造内閣で行革・沖縄担当相
01・4 自民党総裁選に出馬、小泉氏に敗北
04・7 日本歯科医師連盟からの1億円ヤミ献金事件の 責任を取り派閥会長辞任
05・8 衆院選に出馬せず政界引退
06・6 死去
毎日新聞 2006年7月1日 21時16分 (最終更新時間 7月1日 21時44分)