作家の町田康さん
『吾輩は猫である』を何年かぶりに読んだら、嬉(うれ)しくなって、あみゃみゃ、鳴いたり、驚嘆して、ぎゃん、と一声発したり、共感して、ぶくぶくぶく、と咽(のど)を鳴らしたり、感動して、ふぎゃあ、と叫ぶなどして暫(しばら)くの間、人間としてまったく使いものにならず社会から見捨てられてたのしい。
特集「吾輩は猫である」
嬉しくなったのは、笑い、の部分で、いまでもよく使われる笑いの技法が百年前に書かれた小説のなかで炸裂(さくれつ)しているところが嬉しかった。どんな技法かというと、例えば、奇怪なくらいに巨大な鼻、禿(はげ)といった、人の身体的特徴について、「おまえ、文豪やろ。小学生か」と言いたくなるくらい、ことさら、執拗(しつよう)に言及するという技法で、同じ言葉を何度も繰り返すことによって、おもしろさの波がどんどん大きくなっていく。
繰り返しというと、誰かがやったなにかを別の人が少し形を変えて繰り返すというのもしみじみとおもしろかった。どういうところかというと水島寒月の「演舌(えんぜつ)」や長い語りを迷亭らが形式をそのままに内容を馬鹿馬鹿しいものに変えて繰り返すといったところで、落語などにもよくみられるけれども、これを文章でやると、リズム感だけではなく、より緻密(ちみつ)な展開が可能なので、その元の真面目な議論だけではなく、この世にあるいろんなことの意味を無化して、白いけど乾いて楽しい空気感が醸成されて、いや増しておもしろい。