総持寺の鐘を突く修行僧。都会の真ん中であることを忘れるような新緑に包まれていた=横浜市鶴見区、飯塚晋一撮影
曹洞宗大本山の「総持寺(そうじじ)」(横浜市鶴見区)は、JR鶴見線の車窓から見える小高い丘の上に立つ。
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明治期にここに移転し、周辺は門前町になるはずだった。しかし、京浜工業地帯が軍需とともに発展し、工場と労働者らの住宅が並ぶ「工都」となった。鶴見線は1926年、工業地帯で物資を運ぶ貨物線として開通し、30年に旅客営業を始めた。
欧州の駅舎を模したと伝わる鶴見駅の西口を出て、ガード下にある居酒屋や酒店などを横目に歩いて10分ほど。総持寺の門をくぐると視界が突然開け、青い銅ぶき屋根の「大祖堂(だいそどう)」が目に飛び込んでくる。
「総持寺は、京浜のど真ん中にあるオアシスです」
寺のボランティアガイド、斎藤美枝さん(71)はこう話す。50万平方メートルの敷地では雑木林の木々の葉が風で触れあってざわめき、鳥がさえずる。工業地帯の騒がしさは、ここには届かない。
1321年、能登に開かれた総持寺は永平寺(福井県)と並ぶ曹洞宗の二大本山で、末寺は1万5千余。天皇家ともゆかりがあるが1898年、火災で焼失した。どこで再建するか――。寺の役員が「能登派」と「東京近郊派」に分かれて議論を続けるなか、京浜急行の初代社長、雨宮敬次郎(1846~1911)が「寺を東京付近に持って来られれば、すぐに金が出来、立派な寺が出来る」と助言した。
雨宮も総持寺に多額の寄付をしたが、1911年の移転直前に亡くなった。功績をたたえられて敷地内に建てられた銅像は戦中、軍に供出され、現在は台座しか残らない。寺の山口正章・副監院は「(鶴見移転へ)背中を押してくれた大恩人です」と話すが、斎藤さんは、雨宮の存在が知られていないと感じる。
福島県大久村(現・いわき市)…