■ナガサキノート
長崎放送(NBC)の記者として、舩山忠弘(ふなやまただひろ)さん(79)は1千人近い被爆者から被爆の記憶を聴き取ってきた。今年1月、平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる代表を選ぶ市の審査会会長に就任した。原爆への思いを聞いた。
「ナガサキノート」バックナンバー
特集:核といのちを考える
平和祈念式典会場で手を合わせる舩山忠弘さん=2007年8月9日、長崎市の平和公園
「被爆者には後悔があるのです。被害者なのに加害者のような」。生き残ってしまった後悔、死に目に会えなかった後悔、助けを求められながらも、それを振り切って逃げてしまった後悔。取材をしていて、「あなたには私の気持ちは分からんやろう」と言われたこともたびたびだった。
その舩山さん自身も、後悔や後ろめたさを抱えながら生きてきた。爆心地に近い、山里国民学校の近くに引っ越すはずだったが、手続きが遅れ、代わりの家族が入居したと聞いた。あの家族はどうなったのか。「NBCで取材するとき、ずっと頭の中にありました」
爆心地から700メートルにあり、多くの死者が出た山里国民学校
NBCを退職すると、その経験を買われ、長崎平和推進協会の副理事長や平和宣言の起草委員など様々な形で、原爆や被爆者と向き合ってきた。今年初めて長崎市が公募した、平和祈念式典の「平和への誓い」の人選では、選定審査会の会長も務めた。
舩山さんは8人きょうだいの7番目に生まれた。父は以西底引き網漁の網元をしていたが、長崎港から出漁後、行方不明になった。確証はないが、男女群島の近海で米軍の潜水艦に撃沈されたのだと考えている。長崎港を出港した1943年3月17日が父の命日だ。
一家は爆心地から2・2キロの丸尾町に住んでいたが、強制疎開の対象になった。山里町の貸家を母が見つけてきたものの家賃が高く、しばらく悩んでいた。父は亡くなっており、家計は苦しかった。県立高等女学校に通う姉の通学を考え、数日後に申し込みに行った。しかし、すでに借り主が決まっていた。「あなたに貸すつもりで待っとったけど、何日も来んから他の家族に貸してしまった」と大家に言われたという。44年の冬のことだった。
「私たち家族の代わりに引っ越した人は、おそらく一家が原爆の犠牲になったのでしょう。私たちの家族の代わりに犠牲になった家族がいた」。その思いが、のちに記者となり、原爆報道に駆り立てられる原動力になる。
まだ6歳の時のことだが、舩山さんには長与に引っ越したときの記憶がはっきりとある。44年の冬、強制疎開を命じられ、長崎市に隣接した長与村(当時)に向かうまでの道のりだ。「兄2人と、トラックの荷台に家財道具を載せて引っ越しました」。もともと爆心地近くの山里町に引っ越す予定だったが、入居の申し込みが遅れて入居できなくなった。一番上の兄が三菱造船所に勤めていたことから、長与村の丸田郷にあった三菱の社宅に引っ越すことになった。舩山さんと一家の運命を、紙一重のところで原爆から引き離し、命を救った引っ越しだった。
長兄は45年1月に陸軍に徴兵され、福岡・久留米へ、次兄は軍属として満州に渡った。満州で飛行機の修理工場を営んでいた叔父の家族を頼った。残された舩山さんと母、姉4人と妹の計7人が、爆心から約6キロの長与で暮らし、8月9日を迎える。「私自身の被爆体験は、その程度なんです。惨状を直接見たわけでも、聞いたわけでもない」
45年8月9日、舩山さんが住んでいた長与の三菱造船社宅には、舩山さんと母、3人の姉、妹がいた。母は早朝からの食料の買い出しで疲れて横になっていた。
強烈で真っ白な光が襲った。母が跳び起きてきた。間を置いて、ものすごい地響きと爆風が来た。ガラスが割れ、家が傾いた。社宅の隣人たちも何事かと家から飛び出してきたが、何も分からないまま。やがて午後になり、被爆した人が長与に戻ってきた。「長崎は火の海。地獄だ」と聞かされた。
長崎の様子を詳しく語る人を見…
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