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重ね塗り自在、クレパス誕生秘話 大正デモクラシーと縁

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クレパスで表現した「クレパス」の文字=大阪市中央区、滝沢美穂子撮影


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■「まだまだ勝手に関西遺産」


画用紙にありったけの色で下地を塗って、上から黒色で塗り重ねる。それをクギでひっかくと華やかな花火になった。そんな描き方はクレパスならではと思う。子どものころに描いた記憶がある人も多いだろう。


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クレパスが大阪で生まれた画材だったと知り、メーカーのサクラクレパス(大阪市中央区)を訪ねた。


「大阪でクレパスが誕生したのも、好条件がそろっていたからでしょう」。主任学芸員の清水靖子さんが、クレパスの特徴から誕生までの経緯を説明してくれた。


見た目はクレヨンとそっくり。クレヨンの主成分が顔料と蠟(ろう)なのに対し、それにオイルを加えたのがクレパスだ。1925(大正14)年に発売。そのころ「便利で安価なる点はクレイヨンの如(ごと)く、自由自在に色の混ざる点はパステルの如(ごと)し」と形容された。油彩絵の具のように厚塗りのできることが画期的だった。


サクラクレパスは21(大正10)年、東京の中学校の教師だった佐武林蔵(さたけりんぞう)さんらが「日本クレィヨン商会」の社名で創業し、国産クレヨンの製造を開始。3年後に大阪に移ったのは関東大震災があったことや、関西が原料調達に都合が良かったからだ。顔料や染料を扱う会社が多く、神戸港には蠟が陸揚げされていた。


自由と民主主義の風潮が高まった大正デモクラシーの時代。美術教育の現場に画一的ではなく、子どもの創造性を重視した自由画教育運動が広まった。粗悪だった色鉛筆や水彩絵の具よりも子どもが使いやすく、発色も良いクレヨンが普及した。


そのクレヨンも弱点があった。面を塗るには硬くて滑りやすく、色も混ぜることができなかった。自由画運動を提唱した洋画家の山本鼎(かなえ)画伯が、佐武さんらに「子どもがもっと描きやすいクレヨンができないか」と改良の必要性を訴えた。その熱意に打たれ、会社の総力を挙げて開発に取り組んだのがクレパスだった。


油分を含むクレパスは当初、硬…



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