平昌五輪を目指すスキークロスの梅原。大舞台に向け、色紙に「全力疾走」と書いた
アジアが抱える人口は約44億人。だが、スキークロスでワールドカップ(W杯)を転戦しているアスリートは、その中でたった1人しかいない。梅原玲奈(クラブワン)。東京生まれの34歳が、日本スキークロス界の未来を背負って、来年2月の平昌(ピョンチャン)五輪を見据えている。
3月にスペインであった世界選手権では、海外のトップ選手と互角に渡り合って8位に食い込んだ。欧州勢が苦しんだ柔らかい雪質にもベテランらしく対応し、さらりと「戦略の立て方には自信を持っていたけど、それが確信に変わった」と言ってのけた。
元々は国内屈指のアルペンスキー選手。回転、大回転で全日本選手権を制したこともある。それでも、世界の舞台はあまりにも遠く、限界を感じた24歳の春、「あと1年やったら引退」と心に決めた。
スキー人生が大きく動き出したのは、そんな挫折の直後だった。「アルペンの練習になる」と知人に誘われ、2008年5月、スキークロスチームの合宿に参加。だが、ジャンプ台や急カーブが連続する初体験のコースにまるで対応できず、アルペン女王のプライドは粉々に。ただ、それがうれしかった。「私、こんなにスキーが下手くそだったんだ。練習すれば、まだ伸びる。引退は早い」。自分の可能性を再発見し、種目転向を決意した。「ビビビッて、直感です」
転向1年目は、毎回ゴールするのがやっと。それでも、「ダメだ、なんて思わない。どんどん吸収しないといけないって、それだけでした」。国内にW杯サイズの練習コースはなく、転向後まもなくナショナルチームも解散。マイナー種目ゆえスポンサーも十分に集まらず、取り巻く環境はどこまでも厳しかった。梅原はやきそば店やデパートの催事会場など、14年ごろまで週6日のアルバイトで汗を流し、1人で歯を食いしばって腕を磨いてきた。
スキークロスがW杯の正式種目になったのは、02~03年シーズン。初代王者は日本の滝沢宏臣だった。だが、その後の日本勢は振るわず、現在はアジアまで視野を広げてみても、トップ選手は梅原だけになった。先細りの現状に「元々日本は強い国だったのに……。日本人として、アジア人として、私の後が来てくれないと、途絶えちゃう。それは寂しい」。
スキークロスは複数人が同時に滑り、「スキーの障害物競走」とも呼ばれる激しさが見どころだ。一方で、「アクションを起こす場所が数センチずれたら、全く違う展開になってしまう。小柄な体を生かした素早い動きを見てほしい」。豪快にして、繊細。9年前、滑ることの面白さを改めて教えてくれた種目の魅力を伝えるためにも、梅原は初の五輪で表彰台を狙う。「スキークロスをやってみたい。五輪後、そう思ってくれる未来の選手が1人でも出てきてくれたら」(吉永岳央)