便利さへの一歩
時代の枕詞(まくらことば)のように言われることがあります。でも、便利「すぎる」とはどういうことなのか。便利さを享受した時によぎる後ろめたさのような、何かを失っているような感覚から、そう思うのでしょうか。便利さを積み重ねた約30年の社会の歩みを振り返りながら、朝日新聞デジタルのアンケートに集まった声の一部を紹介します。
【アンケート】便利すぎる?社会
■早い配達 裏に深夜労働
便利すぎると感じることのある人たちの声です。
◇
●「欲しい物がすぐ手に入るといった、一般的な理由が大半。逆に、情報は、あふれすぎて、うそと事実の境目が分からない」(神奈川県・60代男性)
●「独居、車なし。でも、朝PCで注文すると午後重たい米、洗剤等指定の時間に玄関先まで届きます。とてもありがたく、申し訳ない気もします」(神奈川県・70代女性)
●「スマホで、カメラ、時計、ステレオ、持ち歩きビデオ、メール、ゲーム機、新聞、時刻表、百科事典、交通情報、株価情報、テレビ、地図、ナビ、電卓、雑誌、書籍、六法全書、電話。安価に、何でも手に入ってしまう便利さ。昭和の時代の生活とは比較出来ない便利すぎる社会です。これらを個別に購入したら100万円でも不足すると思う」(東京都・60代男性)
●「コンビニをよく利用していてそのシステムに慣れてると、ローカルなスーパーの閉店時間とか、レジ速度に不満を抱いてしまうが、不満を抱くような大したことじゃないなと思い『すぎる』を実感する」(京都府・20代女性)
●「注文してその日のうちに届くのはサービス過剰だと思います。24時間対応は国防、災害対策、警察、救急病院だけで良いと思います。『誰かの頑張りや無理に乗っかって』と優し過ぎる表現をされていますが、はっきり言って『誰かの犠牲で』です。いつのまにか日本人は一億総強欲になってしまったんでしょうか」(大阪府・50代女性)
●「トイレのドアが自動で開いて、便器のふたが自動で開き、終わったら自動で水が流れるとき」(大阪府・30代女性)
●「自販機が至る所にあること。日本のサービスに便利さを感じることもあるが、それ以上に違和感を強く感じる。サービスは物質的資源も、さらに人的資源も必要だということに、どれだけの意識があるのだろうか」(長崎県・40代女性)
●「自分が今住んでいる近くには、スーパー2軒、コンビニ3軒、24時間営業の店も多数ありほぼ何事にも不自由せず暮らせています。駐在していたウィーンでは、日曜日はほぼお店が休み、24時間営業のコンビニなどありませんでした。最初はかなり不便さを感じましたが、社会全体がそれを前提に動いており、例えば土曜の午前中を買い物に費やして日曜日はレジャーに費やすとか日本とは違ったリズムで生活できたことも確か」(東京都・50代男性)
●「代表になる例は『TVのリモコン』です。昔はチャンネルを替えるためにTVまで行ったのに、手元で切り替え。だから節操もなく切り替える。ザッピングという言葉まで生んでしまった。昔に戻れば、少しは考えて選ぶかも」(神奈川県・60代男性)
●「辞書を引かない」(福島県・60代男性)
●「夜の10時にネットで商品を注文し、配達日時を指定しなかったので翌朝配送状況を確認してみたら、夜中1時には発送完了、朝5時に宅配センター通過、などとなっていて、お昼過ぎには手元に配達された。急ぎではなかったので配達日時を指定しなかったのにあまりの早さに驚いた。そしてこの早さの裏には夜中に働く人がいて、その人にも家族がいて、などと考えると『そこまで便利にしなくても!』と思った。住宅街にあり夜中は客がいないコンビニ、ファミレス、24時間受け付けのコールセンター、年中無休のスーパーなどなど、あまり意味がないのに誰かの頑張りや無理のかかる過剰サービスは不要だとつくづく思う。エネルギーの無駄でもある。」(東京都・50代女性)
■サービス享受、一部の人
便利すぎると感じたことはない、という声です。
◇
●「便利『すぎる』と答えた人は1年間実際に田舎暮らしをしてみると良い。鉄道は廃線、バスは1日に3本、ガソリンスタンドとスーパーは往復30キロ、アマゾン等ネット通販が届くのに3日以上。あなたの求める不便がここにある。そしてこれが日本の大部分の将来でもある」(北海道・40代男性)
●「便利になる分はいくら便利になっても良いと思う。問題なのは便利を悪と思うことではないでしょうか。人生苦労してなんぼ、みたいな考えがいまだにあることが便利=楽するというふうに結びついているのでは?」(大阪府・40代女性)
●「『便利』は『不便』を解消するために発展したものであり、何かしらの不便が解消されているのであれば、『やりすぎ』ということはないと考えています。そのテクノロジーについていけるかどうか、誰かにとって要不要と感じるかはまた別問題と思います」(愛知県・40代男性)
●「自分は障がい者なのですが、生活で不便を感じることが多い。もっと便利にできるはずと思う」(茨城県・20代女性)
●「キンドルのおかげでいつでもどこでも本が読める。町の本屋じゃ置いていなかった本を手に入れられる。とりわけ洋書。和書だけでは読書がひどく貧しくなることを思い知った。ネットのおかげでどんな情報でも調べられる。マスコミが独占したニュースを信じるしかなかった20、30年前とは大違い。それどころかこれだけ誰もが公に言い合える時代は素晴らしい。これこそ民主主義の基本」(東京都・50代男性)
●「『便利な社会』だとは思うけど『便利すぎる』とは思わない。『便利すぎる社会』をネガティブな意味で使う人は、自分に関係ない部分での利便性に対して『便利すぎるのも考えもの』と言うが、自分に直接影響のある部分での技術の進化は普通に享受しているという印象。要するにみんな都合がいい」(東京都・20代女性)
●「運転ができる健康なわたしが通信販売やネットスーパーを多用し、運転せず足腰の弱った高齢者はPC等で注文するすべを知らないために悪天候でも実店舗へ買い物へ行く、という例のようなことがあるので、社会的弱者を含めた多くの人に『便利すぎる』のではないと思います。つまり、利便性を享受できる人が偏っています。情報を早く大量に収集できる立場の人にとっては便利すぎるけれど、そういうことが苦手、できない人は、もともとあった利便度が低下していく一方だと。これもまた二極化」(埼玉県・30代女性)
●「仮に『便利すぎる社会』だと感じている人がいるとして、そういう人は、『便利』を拒否すればよいだけの話。宅配便の再配達が必要ない人は配達センターに取りに行けばよい。コンビニが必要なければ利用しなければよい。そもそも『便利すぎる』というのは、誰基準なのか。例えば、東京都心の交通機関は、障害者にとって『便利すぎる』かといえば、全くそうではあるまい。エスカレーターやエレベーターまで遠回りさせられることも多々ある。内部障害者はいまだに『元気な者は立て』と言われる恐怖から自由ではない。自分基準で『便利すぎる』ものを排除したら、それなしには生活できない人が困るかもしれない、という敏感さを持ちたい」(鹿児島県・40代男性)
●「便利さを享受できるのはカネのある人間だけだから。ある程度以下の水準の収入層にとっては、カネのある人間を前提にして社会を作られるとむしろ不便さと不利益を被る。例えばスマホやタブレットを持てない貧困家庭の子供にとっては、友達と遊べない、作れないなどの圧倒的に不利な立場に置かれることになり、auの三太郎の日だって参加できない。社会生活を営む上で不自由この上ない。格差が大きな社会で有料サービスがいくら進歩したところで、便利さを感じる人と同じくらい、それ以上の不便さを感じる人を作るだけ。そのようなイノベーションは社会を豊かになどしていない」(東京都・30代男性)
◇