日本や米国から届いた手紙を手に取る服部政一さん(右)と美恵子さん=名古屋市港区
米ルイジアナ州で1992年10月17日、名古屋市の高校2年生だった服部剛丈(よしひろ)さん(当時16)が銃撃されて亡くなってから、まもなく25年を迎える。米国では今月、58人が犠牲になる銃乱射事件が起きるなど、銃社会が招く事件が今も続く。両親は「剛丈が憧れた米国に変わっていってほしい」と、銃規制への変わらぬ思いを訴え続けている。
「今もいつも剛丈と一緒。悲しませたくないので、幸せな気持ちでいるようにしている」。事件当時45歳だった父の政一(まさいち)さんは70歳になった。
定年退職後は畑を耕したり気ままに出かけたりして、妻の美恵子さん(69)と穏やかな日々を送る。家族で剛丈さんの話になる時は、「いつも部屋がぐちゃぐちゃだったなあ」と笑って振り返れるようになった。
この25年、駆け抜けるようだった。
2人は銃規制運動に必死に取り組んだ。事件から1年余りの間に、米国での銃規制を求める署名を日本で約170万人分集め、当時のクリントン米大統領と面会。短銃購入を一部規制する「ブレイディ法」成立の一翼を担った。2012年には事件が起きた街、バトンルージュから名誉市長の称号を贈られた。
美恵子さんは「忙しくしていないと、自分を保てなかった」と振り返る。政一さんらに「もっと真剣に考えて」と強くあたってしまうこともあった。英語講師だった自分の勧めで米国へ旅立ち、帰らぬ人になった我が子。剛丈さんの部屋を片付け、気持ちに余裕が持てるようになるまで10年以上の月日を要した。
それでも2人は心を痛める時がある。
ラスベガスで1日に起きた銃乱射事件のニュースを見た時、政一さんは「また起きてしまった」と嘆息した。剛丈さんが亡くなってから、乱射や誤射事件で銃による犠牲者が出るたびに、「変われない米国」に怒りとむなしさを覚えた。
「『人を殺すのは銃ではなく扱う人だ』とよく言われるが、日本のように銃が身近になければ悲劇は起きない。対策を真剣に考えないと、何度も同じことが起こる」と政一さん。トランプ米大統領や共和党に近い全米ライフル協会(NRA)が率先して銃規制に取り組む姿勢を見せるべきだと訴える。
2人は25年を節目に、これまでに日本や米国などから届けられた手紙や絵の整理を始めた。「すごく励みになった。世界中の方に感謝したい」。寄贈も考えており、事件の資料として残していきたいという。
若い世代にも、剛丈さんの生きた証しは脈々と受け継がれている。
剛丈さんの死亡保険金で93年に設立した「YOSHI基金」で米国から日本にやってきた留学生は現在25人目になった。剛丈さんが通っていた愛知県立旭丘高校では毎年、生徒と留学生が銃規制を考える機会があり、政一さんと美恵子さんも講演で思いを伝えている。
美恵子さんは「25年間、こんなに多くの人に背中を押してもらって、今では幸せ者とも思える」と話す。
「剛丈が『第二の故郷になったらいい』と書き残していた米国が変わってくれるように、できることを続けたい」(杉浦達朗)
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〈服部剛丈さん銃撃事件〉 米ルイジアナ州バトンルージュに留学中の名古屋市の愛知県立旭丘高校2年服部剛丈(よしひろ)さん(当時16)が、1992年10月17日(現地時間)、ハロウィーンパーティーで訪ねる家を間違えて、住人の男性に銃で撃たれて死亡した。
男性は銃を構えて「フリーズ」(止まれ)と警告し、歩み寄ってきた剛丈さんを銃撃。93年の刑事裁判では、陪審員団は無罪評決を下したが、94年の民事裁判では裁判所が「正当防衛とは認められない」として男性側に計65万3千ドル(当時約6500万円)の支払いを命じた。