「(原告の人々は)胸が晴れなさったろうと思います」。最高裁判決について、絞り出すように語る石牟礼道子さん=2013年4月、熊本市
水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子さん(90)が10日、亡くなった。
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「苦海浄土」が出版された1969年は、水俣病患者がチッソに損害賠償を求めて熊本地裁に初めて訴えた年でもあった。
「うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい」(第三章「ゆき女きき書」)、「わしも長か命じゃござっせん。長か命じゃなかが、わが命惜しむわけじゃなかが、杢(もく)がためにゃ生きとろうごてござす」(第四章「天の魚」)、「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」(第四章「天の魚」)。
「(患者の家で)診察していると、遠慮がちに、邪魔にならんように見てるわけです、ニコォニコしてね」。プロの物書きとしてではなく、主婦として水俣病への関心を深めていった石牟礼さんのことを、水俣病研究の第一人者で医師の故・原田正純氏はそう記憶していた。後に「苦海浄土」として刊行される原稿は最初、水俣病の公式確認から4年後の60年、詩人の故・谷川雁(がん)氏が主宰する機関誌「サークル村」に「奇病」として発表され、65年から雑誌「熊本風土記」で「海と空のあいだに」の題で連載が始まった。方言へのこだわりを、石牟礼さんは「人様を思いやる倫理の高さというか深さは、純然たる方言の世界」にあったと説明していた。
ただ、この作品はいわゆるノンフィクションや聞き書き、記録文学の類いではない。観察者の立場ではなく、言葉さえ奪われた患者たちの魂を乗り移らせたかのように、「本人が心の中で語っていること」を写し取り、聞き書き以上の「真実」をとらえた。「患者さんが口にしたくてもできないことを私が言葉にしてさしあげた」のであり、「石牟礼道子の私小説」(渡辺京二さん)だった。
作家池澤夏樹さんが責任編集した「世界文学全集」(2011年、河出書房新社)に日本人作家の長編として唯一収録したのは、「彼女を除いて戦後日本文学は成り立たない」(池澤さん)と考えたためだ。「不知火の海の匂い濃い地方文学であるまさにその故に、普遍性を獲得した世界の文学」(石牟礼さんと交流のあった世界的な免疫学者の故・多田富雄氏)でもあった。(上原佳久)