菊池涼介選手(右)と握手する大輪弘之・元武蔵工大二監督=2014年6月、広島市・マツダスタジアム(長野スポーツマガジン社提供)
信州工(長野)と校名変更後の武蔵工大二(現東京都市大塩尻、長野)で42年間にわたり監督を務めた大輪弘之(74)。「最後の3年生」の1人が菊池涼介(28)だ。
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広島東洋カープに入団7年目。今やプロ球界を代表する二塁手と定評がある菊池だが、「高校時代は目立つ存在ではなかった。特別な指導もしていない」と大輪は言う。徹底して教えたのが、基本的な技術と野球に取り組む姿勢だった。
それは、大輪が母校・亜細亜大で監督からたたき込まれた指導方針だ。その監督は故アイク生原(いくはら)(本名・生原昭宏)。亜大監督を退任後に大リーグのロサンゼルス・ドジャース球団職員となり、日米球界の懸け橋となった功労者として知られる。
「生原監督はノックやランニングなど基礎練習の時間が本当に長かった。基礎が身につけば、選手が持っている素質が追いついてくるという考え方だった」
1966年、縁があって信州工の監督に就任した大輪は、生原の指導法を持ち込んだ。たとえば、内野ノックでの送球。「正しい軌道で一番強い球を投げる」を意識させるために上手からしっかり投げるよう求め、小手先の横手投げは許さなかった。2時間を超えるノックもあった。野球場に向かうバスでは居眠りを厳禁とした。試合に臨む意識を高めるのが狙いだ。
菊池は、東京の中学時代に属していたリトルシニアチームの監督に勧められて入学した。「やんちゃな面もあったが、野球になると顔つきが変わる。真摯(しんし)に練習に取り組む子だった」
その成長ぶりを実感した記憶が大輪にはある。ランニングは、隊列を組み、足並みをそろえて同じスピードで走らせた。不十分だと、やり直し。あるとき、菊池が「1周で終わらせようぜ。そろえるぞ」と仲間に声をかけ、息がぴたりと合った。「チーム競技の野球は、仲間の気持ちをひとつにすることが大切。率先してチームをまとめる姿は実に頼もしかった」と大輪は目を細める。
「全ての事は心から始まる」。菊池が高校時代に大輪から教えられた言葉だ。「プロ入り後も常に僕の中にあります」と菊池。
守備範囲ぎりぎりの「球際」に強かったので、強い打球をさばく機会の多い三塁手で起用された。送球も正確だった。走塁も「一級品」。特別に足が速いわけではないが、相手の守備位置や送球を見て、まんまと次の塁を陥れるのが得意だったという。打撃も学年が上がるにつれて力がつき、主に3番を任せた。
ただし、甲子園には届かなかった。大輪と菊池にとって「最後の夏」となった07年の長野大会は、4回戦で敗退した。
「走攻守すべてにおいて素質はあった。菊池なら、卒業後、どこにいっても成功すると思った」
監督退任の翌08年から昨年まで10年間、大輪はabn長野朝日放送の解説者を務めた。現在は、ボーイズリーグの諏訪ドリームでコーチとして週に3、4日、中学生を指導する。
「グラウンドで子どもの成長を感じるのがやっぱりうれしい。指導をやり続けて、また菊池のような選手に出会いたいですね」
=敬称略(辻隆徳)
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おおわ・ひろゆき 1943年、東京都大田区生まれ。専大京王(現専大付)と亜細亜大で外野手。信州工監督として夏の長野大会で準優勝2度。春と秋の県大会では信州工と武蔵工大二を通じて優勝が各3度。
きくち・りょうすけ 1990年、東京都東大和市生まれ。2005年、武蔵工大二(塩尻市)入学。中京学院大から12年広島入り。16、17年のセ・リーグ2連覇に貢献、13年から5年連続ゴールデングラブ賞。