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(1983年1回戦、吉田3―4箕島)
甲子園で勝ったことがない吉田が、春夏合わせて優勝4度の箕島を追い詰めていた。1983年8月9日の1回戦。延長十三回表、吉田は得意の機動力を生かし、ダブルスチールで3―2と勝ち越した。
組み合わせ抽選時の心境を、遊撃手の田辺徳雄は「コールド負けにならなきゃいいな、と。コールドはないんだけどね」と苦笑して振り返る。尾藤公監督が率いた箕島は、後に近鉄や大リーグで活躍する吉井理人をエースに擁していた。
吉田―箕島 三回表吉田無死、先頭の8番桑原が左中間を破り、三塁にヘッドスライディング。9番柴田の右前安打で先制のホームを踏む
その相手からの「金星」がすぐそこにあった。ただ、箕島も粘る。十三回裏、1死満塁に。6番打者のボテボテの打球が田辺の正面に転がった。
前を横切る二塁走者と打球が重なった。田辺は両足がベタッと止まってしまう。中途半端なバウンドにグラブを合わせられず、ファンブル。同点とされてしまった。
なお、満塁。7番打者の初球は、またも打ち取った打球となったが、田辺の右を「スローモーションのように」、抜けていった。
遊撃手としてプロ野球西武の黄金時代を支えた田辺にとって、6打数無安打に終わった打撃とともに、甲子園はほろ苦い記憶だ。
「上体だけでさばく癖があった。バウンドに合わせられるよう、足を動かさなければいけない。プロに入って、口を酸っぱくして言われた。『足を動かせ、足を動かせ』と。何年かして、ようやくわかるようになりました」
この試合、吉田は2―1で迎えた九回にも土壇場で箕島の粘りにあっている。
吉田―箕島 九回裏箕島1死三塁、スクイズに失敗し、三本間に挟まれた三塁走者をタッチアウトにする田辺徳雄(左)
1死三塁で、打席には箕島の5番硯昌己。3ボール―1ストライクからの5球目。田辺と同じ2年生の左腕・三浦憲は投げる瞬間、三塁走者の動きを察知し、とっさに外に大きくはずした。硯はバットを寝かせ、横っ飛びにスクイズを試みるが球は当たらない。捕手の井出斉が何とか飛びついて捕る。走者を三本間で挟殺した。
「同じ状況の練習をしていました。三塁手が『走った』と叫び、その瞬間にはずす練習を。自分の直球が120キロ台と遅かったので、キャッチャーが捕れたのかもしれません」
今、富士吉田市で鍼灸(しんきゅう)マッサージの治療院を開く三浦は、そう述懐する。
吉田のエース三浦憲
スクイズを失敗させ、2死走者なし。「勝った」。田辺も三浦もそう思った。
ただ、その次の決め球が、バッテリー間で合わなかった。技巧派でコントロールに自信のある三浦は、カーブで勝負したかったが、井出は外角の直球を要求してきた。三浦は公式戦で初めて首を振った。硯には、七回にカーブを本塁打されている。井出は強いしぐさで再びサインを出した。「外のまっすぐだ」。三浦は今度は同意した。球は決して甘くなかった。失投でも何でもない。打球はバックスクリーンに飛び込んだ。
逆転負けし、箕島の校歌を聞く吉田の選手たち=1983年8月
2度までも、つかみかけてつかみきれなかった勝利。「悔しくて、しばらくは映像も新聞も見られませんでした」と三浦。
箕島との熱戦を語る前西武ライオンズ監督の田辺徳雄=埼玉県所沢市、迫和義撮影
地元の中学時代は、万年補欠だった。それが吉田に入ると、キャッチボールした輿水又幸監督にボールの回転に才能を見いだされたという。中学で1度も公式戦に出たことがない選手が、エースとして甲子園のマウンドに立つ。悔しい思い出ではあっても、そんな逆転の青春時代は「人生の一番の勲章」となった。
田辺は「こんな漫画みたいな出来事は初めて経験した。何が起こるかわからない。高校2年にして痛感しました」と箕島の底力を懐古する。そして高校野球で得たものについて、こう語った。「うまくいかなかった時に、どれだけ我慢してコツコツできるか。才能は突然現れるのではなく、コツコツやり抜く力を持っているから現れる」(中小路徹)
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「渾身(こんしん)」。田辺徳雄・前西武監督の好きな言葉だ=埼玉県所沢市、迫和義撮影
田辺徳雄(たなべ・のりお) 富士吉田市出身。西武ライオンズ・球団本部チームアドバイザー。現役時代はベストナイン、ゴールデングラブ賞を2度ずつ受賞。2014年途中から監督代行、15、16年監督。