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捕虜だった曽祖父、土産は野球 甲子園を追う4代の夢

作者:佚名  来源:本站原创   更新:2018-7-23 14:30:47  点击:  切换到繁體中文

 

少年たちが声をあげ、グラウンドで白球を追っていた。富山市のチーム「岩瀬ドラゴンズ」の試合。コーチの蓑浦貴裕(みのうらたかひろ)さん(40)は本塁へかえってきた小学5年生の息子、大輔君(10)とタッチを交わした。


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「打った、打った」。家に帰って家族に報告をする大輔君。「将来は富山商へ行って甲子園を目指したい」。その言葉の背景には、憧れの地を目指してきた家族の物語がある。



大輔君の曽祖父、登司雄(としお)さんは、100年前の1918年7月31日生まれ。米価高騰に怒った富山の女性たちが米屋に押しかけた騒ぎが波及し、44道府県で100万人が蜂起する「米騒動」へと拡大した年だ。


登司雄さんは32年に旧制富山商へ入学し、翌年からエースに。夏の大会は当時、県予選の次に北陸3県の2次予選があった。富山予選を3年連続で突破したが、2次予選で敗れ、甲子園には行けなかった。


3年生だった34年11月13日、来日した全米選抜チームによる「日米野球戦」の第7戦が富山市であった。ベーブ・ルースが本塁打を放つなど活躍。日本選抜の投手には沢村栄治がいた。昔話で「近くの球場にベーブ・ルースが来た」と話していたという登司雄さんは、4年生の夏の大会後、プロを目指して富山商を中退した。



「野球奇話 生きていた英霊投手」。家族にはあまり語らなかった登司雄さんの戦時体験が敗戦8カ月後の46年4月22日付の地元紙にある。


登司雄さんは旧海軍に召集され、44年4月、南方ウェーク島海域で米軍潜水艦の魚雷攻撃に遭った。郷里に戦死公報が届き、7月、市葬もあった。だが、登司雄さんは近くの小島へ漂着。米軍の捕虜になっていた。


米国本土の収容所へ送られ、捕虜の野球チームに加わった。46年1月の復員の際、自宅の仏壇には自分の「遺骨箱」があったという。記事は、富山に戻って野球チームに加わった登司雄さんが試合で好投した時のもの。「俘虜(ふりょ)のお土産が野球だなんて変てこですが、私はアメリカ人に教わった野球のコツを富山のみなさんに見ていただき、スポーツ富山に一肌脱ぎたい」と話している。



登司雄さんの息子で大輔君の祖父にあたる隆司(たかし)さん(71)は「野球のこと、戦争のこと、もっと聞いておけばよかった」と悔やむ。


隆司さんは中学の頃、登司雄さんとキャッチボールした時のことを忘れられない。手元で伸びる球は40代なのに自分より速いと思った。「現役の頃はどれだけすごかったんかな」。同じ富山商へ行こうと決めた。


練習は厳しかった。それでもボールをバットの芯で捉えた時の手に伝わる感覚が好きだった。「あの快感があるから耐えられた」


東京五輪の聖火リレーが富山にも来た64年の第46回大会で、2年生だった隆司さんは甲子園出場を果たす。7番で一塁手。開幕日の8月9日の第3試合で北海(南北海道)と対戦した。初体験のナイターで、目を離すと打球を見失いそうだった。「大舞台で恥をかかないよう必死だった」。だが4―6で敗れた。



それから14年、貴裕さんが生まれた。少年時代は「岩瀬ドラゴンズ」でプレー。隆司さんの試合には現れなかった登司雄さんも貴裕さんの試合は見に来た。「おやじは貴裕にはべたべただった」と隆司さんは語る。だが94年、貴裕さんが中学を卒業する直前、登司雄さんは75歳で脳卒中で他界した。「じいやんがいた高校でプレーしたい」。貴裕さんは富山商へ進むと決めた。


念願の進学先で貴裕さんは「蓑浦の孫か」とOBに声をかけられた。「KKコンビ」で甲子園を沸かせた巨人の桑田真澄がリーグ優勝を争う中日との「10・8決戦」の胴上げ投手になった頃。当時、投手だった貴裕さんは「鋭いカーブが格好よかった」と憧れた。


3年生では主将を務め、96年の第78回大会で甲子園への切符を手にした。初戦は隆司さんの時と同じ8月9日。相手は鹿児島実。この時控えだった貴裕さんは伝令でマウンドへ。「落ち着け、落ち着け」と声をかけたが、九回表に4失点。これも同じ4―6で負けた。この年の優勝校は松山商(愛媛)。選抜大会を含め、大正、昭和に続き、平成でも甲子園で優勝した唯一の高校となった。


貴裕さんは「祖父の甲子園大会を父がかなえた。父の夢である初戦突破は出来なかった」と部史で残念がり、それでも「甲子園は最高でした」と記した。


そして、甲子園の活躍で「平成の怪物」と言われた松坂大輔がメジャーデビューをした2007年、大輔君が生まれた。好きな選手は巨人の坂本勇人。「ヒットを打った時の『パン』という音が気持ちいい」。打撃が好きなのは祖父譲りだ。


父の貴裕さんは「僕が暴投しても野手がフォローしてくれた。勝った喜びも共有した。目標を持って仲間と頑張った3年間は人生の財産。もし甲子園を目指すのなら、その過程で成長してほしい」と願う。(国方萌乃)



 

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