敗戦直後、混乱する旧満州(中国東北部)で、満蒙開拓団の幹部から指示を受けて旧ソ連兵に「性接待」をした……。90歳前後の元団員女性たちの告白が、衝撃を与えている。当時、何があったのか。70年間、性暴力被害は、なぜ秘められてきたのか。証言活動を支える、戦後生まれの岐阜県の黒川分村遺族会会長、藤井宏之さん(66)に聞いた。
――90歳前後の女性が「性接待」を告白する。ショックです。
「私が暮らす岐阜県の旧黒川村(現在の白川町)を中心に1941年以降、600余人の黒川開拓団が吉林省陶頼昭に入植しました。当時の村長は県議会議長も務めた人で、不況で疲弊した村を救おうと国策に協力したのでしょう。終戦直後、多数の現地住民に襲撃されました。食料も武器もなく、隣の開拓団は全員自決。『明日は黒川開拓団だ』と声が上がったそうです。その時、近くに駐屯するソ連軍部隊に助けを求めたところ、代償を求められ、17歳から21歳の未婚女性15人をソ連軍将校の『接待』に出したのです」
――具体的には何を。
「女性をソ連軍の兵舎に送ったり、開拓団の一室を接待所にしたりしたそうです。45年9月ごろから11月ごろまで続きました。その後、国共内戦の中を逃げ、翌年、451人が帰国しました。大勢帰ることができたのは、尊い犠牲があったからだと思います」
――なぜ、年頃の未婚女性を出したのですか。
「終戦間際の根こそぎ動員で大半の男性が徴兵され、開拓団には女性と子ども、年寄りしか残っていなかった。当事者の女性らによると、団幹部に『夫を兵隊に取られた奥さんたちには、頼めん。犠牲になってくれ』と言われたそうです。『娘の身代わりになる』という母親や、『一緒に死のう』という年配者もいましたが、幹部は自分の娘も差し出すと説得しました。その幹部自身は現地で亡くなっています。当時は集団生活でした。親の前で娘が連れ出されるなんて、地獄だったでしょう」
――最近まで、誰もこのことを話さなかったのですか。
「帰国後、公に語られることはありませんでした。本人や家族を思えば、言うことではないと。遺族会が82年、現地で亡くなった4人の女性のために『乙女の碑』を建てたのですが、碑文もなく、何の碑か分からない状態でした。翌年、地名や人名をぼかしたルポが月刊誌に掲載されましたが、地元で買い占められたそうです」
――68年の白川町誌には「女を要求する異邦人のため若い娘が自分の体を投げだして団を救った(中略)こまかく書きのこすには絶大な勇気を必要とする」とあります。
「その文章は知りません。私の父母も開拓団員で、私の兄や姉たち4人を45年冬、発疹チフスや栄養失調で亡くしました。父は戦後、初代遺族会長になりましたが、私に一度も性接待について語りませんでした。父は当時、『呼び出し係』だったそうです。『あなたのお父さんが来ると怖かった』と女性から言われました」
――父親が性接待に加担していたとは、ショックですね。
「父から満州時代の苦労をあまり聞いたことがありません。こちらが反発して聞かなかった部分もあります。すぐ『お前らには分からん』と言われました。多くの開拓団員は苦労して帰国したのに『引き揚げ者』と差別され、『(性接待は)黒川開拓団の恥』という意識もあったのでしょう」
「でも本当は父も苦労話とともに、なぜそんな役を引き受けなければならなかったのか、聞いて欲しかったのではないかと思います。心の奥では罪深いことをしたと反省していたでしょう。話を聞いてやれなかったのは残念です」
――戦後世代のあなたが、なぜ取り組むのですか。
「94年、元団員らが現地を訪ねた際に初めて夫婦で同行しました。当事者の女性と親しく話すようになり、その後、家にも通いました。男の私が詳しく尋ねる話でもなく、妻も一緒でした。このとき、心情を深く知ることが出来ました。訪中から帰国した夜、父が亡くなったこともあり、あの旅は忘れられません」
「ほかの女性にも聞きました。ふと思い出して苦しくなり、つらくなるそうです。それなのに戦後ずっと伏せられ、感謝もされず、ただ忘れられていく。一方でうわさが広がり、多くは故郷に住めなくなった。中には独身を通したり、子どもが産めない体になったりした人もいました。女性たちだけでひそかに年に一度集まり、慰め合っていました」
――5年前、開館したての満蒙…