本庶佑(ほんじょたすく)・京都大特別教授(76)のノーベル医学生理学賞の受賞決定を、もしかすると、だれよりも喜んでいるかもしれない。本庶さんが学生時代に師事した、京大名誉教授の早石修さん。日本の生化学分野を切り開き、自身も長らく「ノーベル賞候補」といわれながら、2015年に95歳で亡くなった。「早石スクール」と呼ばれた研究室は、本庶さんをはじめ、多くの研究者をうんだ。
「はたらく細胞」オプジーボの活躍は? 作者描き下ろし
特集:本庶佑・京都大特別教授にノーベル医学生理学賞
他の追随許さぬ研究室
早石修さん(右手前)。早石さんの奥、一番右側に座っているのが本庶佑さん=「本庶佑教授退職記念アルバム」から
「サイエンスというのは、国際的なレベルで語らないかぎり意味がない。つまり、国際的に自分の研究がどういう位置にいるかを常に考えていない研究は自己満足になる」
受賞が決まった10月1日の会見。早石さんの研究室で学んだことは? そんな質問に、本庶さんはこう答えた。
「国際性」は、米国立保健研究所(NIH)の毒物学部長まで務めた早石さんが、1958年に京大教授となって持ち帰ったものだった。本庶さんは1960年に京大学医学部に入学。学部2年から、早石さんの研究室に出入りし始めたという。
実験機器も研究費も、十分に手に入らなかった時代。そのなかで、米国から持ち帰った最新の機器や、米国から得た研究費は、早石さんの研究室を、他の追随を許さないものにしていた。「ここに行けば、世界の最前線の生化学が学べる」と、優秀な学生が集まった。
「全てのデータは疑ってかかれ」。そう言って学生を厳しく指導したという早石修さん。研究室には「中ボス」と呼ばれるリーダー制度や、論文力を鍛えるランチミーティングなど、様々な仕掛けがありました。
「当時の医学は、『記述の学問…