東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市出身で、同じ日に生まれ、同じ小・中学校で9年間を過ごし、後に日本代表の看板を背負って世界で活躍した男たちがいる。ラグビーの畠山健介とフェンシングの千田健太。「健」の字でもつながり、震災と向き合い、スポーツ界の発展に尽力する33歳の2人が語り合った。
1985年8月2日に産声を上げた2人は、市立松岩小学校、松岩中学校に通った。スポーツ好きだが、性格は正反対だった。
畠山 チダケンは足が速いリレーの選手。将来すごい選手になるだろうなって見ていた。ただ、かっこいいけどすごく寡黙で、女子はどう距離を詰めていいか分からなかったと思う。
千田 健介はクラスの盛り上げ役。生徒のいじりがうまくて、先生にも茶々を入れていた。体は大きいのに物の扱いがうまくて、バスケ部の主将だった。
それぞれ違う競技をしながらも、自らの特性を生かせる競技にのめり込めた。近くにいい環境があったから、と振り返る。
千田 僕はサッカー部でJリーガーをめざしたけどうまくいかなかった。父(健一さん)がフェンシングをやっていたこともあって、中1の終わりに自分で地元のクラブに通い始めた。地味なイメージがあったけど、クラブの指導者が楽しませてくれて。部活動と違って人間関係がフラットなのもよかった。指導者に褒められたいと頑張れた。
畠山 僕は兄弟と比べて勉強ができなかった。でも、ラグビースクールで初めて当たりの練習をした時、コーチが『お前、すごいな』って持ち上げてくれた。親以外の大人に褒められた時の恍惚(こうこつ)感は忘れられない。接触が反則になるバスケはあわなかったけど、ラグビーは違った。選択肢があることは大事。あと、周りが少し難しい目標を設定して、小さくてもいいから成功体験を重ねることも大事だと思う。
千田は気仙沼高で父の指導を受け、インターハイ個人で3位になり中大に。畠山は仙台育英高で全国大会に出場し早大へ。それぞれ才能を花開かせた。
畠山 自分の競技人生の中で早…