終戦間近の1945年7月、旧国鉄の蒸気機関車が彦根―米原駅間のトンネルを出たところで機銃掃射を受け、機関士(享年32)が亡くなった。あの日から74年。当時2歳だった息子が最期の地に立った。「やっと来られたよ」。長い時間、そっと手を合わせた。
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朝日新聞彦根支局に1本の電話
2月末。朝日新聞彦根支局の電話が鳴った。
「昭和20(1945)年7月28日、私の父が機銃掃射で亡くなった『ブシオヤマ隧道(ずいどう)』がどこか分かりませんか」
電話の主は滋賀県草津市の高橋正夫さん(76)。父の正紀知(しょうきち)さんが亡くなった当時は2歳。父親の記憶は、95年に亡くなった母の光子さんの話によるものだ。
正紀知さんは国鉄の機関士だった。国鉄東海道線(JR琵琶湖線)の彦根から米原へ向かう「ブシオヤマ隧道」を出たところで機銃掃射を受け、ハンドルを持ったまま運転台で亡くなった、という。光子さんは貨物列車に便乗して米原駅へ遺体を引き取りに行った。穴だらけの炭水車を見たという。
正夫さんは光子さんに「いずれは国鉄に入って」と言われて育ち、父と同じ機関士になった。後には東海道新幹線の運転士として、54歳まで運転台に座った。米原近くを通るたびに「このへんで父親はやられたんや」と思ったが、場所を確かめる機会がないまま月日は過ぎた。「私も76。生きてる間に何とか、線香のひとつもあげてやりたいんです」
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