日本映画界初のカンヌ映画祭グランプリに輝いた故衣笠貞之助(ていのすけ)監督(1896~1982)が、日中戦争の従軍記者として占領下の中国の様子を撮影した写真など、200点を超える遺品が大阪市内の古物店で見つかった。従軍写真は戦時中、一度だけ公開されたことがあるが、その後大半の写真の行方は分からず、図柄も不明だった。検閲で「不可」とされた写真が含まれ、旧日本軍の情報統制の実態も分かる幻の作品群で、専門家は「著名な監督の写真で人道的占領政策をアピールする狙いもあったとみられる。歴史的にも貴重な資料だ」と評価している。【高橋一隆】
見つかった遺品は、写真約170点のほか、従軍時の経路やスケジュールなどをメモした「従軍始末記」、航空機の搭乗許可証、手帳など。写真は、従軍始末記の記述などから、1938年11~12月、主に広東省や福建省などで撮影したものらしい。
「不可」とされた写真には、「忠勇義烈のお兄さん 必ず三階へ 大歓迎」と日本語で記したビラを張った慰安所とみられる写真や、旧日本軍が掘り起こしたとみられる中国人の墓を撮影したものなどがあった。
また許可された写真には、「日本軍は万全の治安対策をとるので安心して暮らして下さい」という趣旨の張り紙や、賭博の様子を写したものもあった。占領下とはいえ平穏な日常を写したものが多く、旧日本軍が著名な衣笠監督を起用して人道的な占領政策をアピールし、戦意高揚を図る狙いがあったとみられる。
許可された従軍時の写真197枚は、39年1~2月、大阪市内などで開いた写真展で公開された。展示されたとみられる写真数点は衣笠監督の出身地、三重県亀山市の市歴史博物館に所蔵されているが、多くは収集家にわたったとみられ、長年、表に出ることはなかったという。
一方、従軍始末記には、大陸に渡った経路や写真の撮影場所などが便せん4枚に記され、11月2日から12月14日に帰国するまでの詳しい日程が判明した。また航空機搭乗許可証や従軍許可証などもあった。
毎日新聞の取材に応じた古物店の経営者は「持ち込まれた経緯は言えないが、できれば散逸しない形で譲渡したい」としている。
衣笠監督を研究する亀山市歴史博物館の佐々木裕子学芸員は「従軍時の写真がどんなものだったか正確には分かっておらず、興味深いコレクションだ」と話している。
【衣笠貞之助】 本名は小亀貞之助。1917年に女形として日活に入社。20年に「妹の死」で監督としてデビューし、46年「或る夜の殿様」で第1回毎日映画コンクール・日本映画賞を受賞した。54年には菊池寛の戯曲「袈裟(けさ)の良人(おっと)」を映画化した「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを獲得し、国際的な評価を得た。
▽昭和史に詳しい作家、半藤一利さんの話 1938年は、国家総動員法が施行された年。(満州事変から続く)予想外の戦争長期化に、軍も焦り始めた結果、戦意高揚のため著名な映画人や文学者をも動員しなければならなかったのだろう。軍の宣伝や情報統制の実態がよく分かる資料で、歴史的にも貴重だ。衣笠監督は国や軍の狙いに必ずしも迎合せず、リアリスティックに街の様子を撮影したのではないか。