雨の中を歩いている。
公園の木々も初夏らしく茂ってきた。緑が鮮やかに見えるのは、雨で黒ずんだ幹のせいだろう。
道沿いの家々のあいだでアジサイが濡(ぬ)れている。クチナシもほのかに香る程度に花をつけてきた。
もとより豪雨、大雨はお断りだが、花が散らぬほどの雨なら悪くはない。ときどきの晴れ間も、梅雨なればこそのありがたみがある。
みんなが長雨に閉口しかけたころ、垂れ込めた黒雲を裂いて太陽が顔を出す。どの家の物干し場も、にわかにいそいそした気配がみなぎってくる。
その夜の布団は、ほっこりとして気持ちがいい。かすかに漂う日のにおいには、なんとはなしに幸福感がある。
先日の晴れ上がった日には、谷川俊太郎氏の詩の一節が浮かんだ。
ほほえむことができぬから/青空は雲を浮かべる……
泣いていた空が、白い雲を浮かべて確かに笑っている……、いいなあ、今日の空は。しばらく見上げていた。
城山三郎氏に「この日、この空、この私」というエッセー集がある。氏に下されたがん宣告が誤診とわかって以降の思いが、そのタイトルに込められている。「それ以降、何でもない一日もまた、というより、その一日こそかけがえのない人生の一日であり、その一日以外に人生は無い--と、強く思うようになった」
よく似た思いは、ぼくにも刻まれている。大病をして病院の窓から見た空も、「この空」であった。梅雨晴れもまた、ありがたい「この空」である。
さてぼくは雨の中を歩いている。もっとも天気は関係ない。毎朝、小一時間の散歩は、この10年ずっと続けてきた健康法だ。
季節それぞれに好きな道がある。梅雨時は家の近くの公園をぐるっと回って、周辺の住宅街を縫って歩く。米粒ほどもない一粒一粒が、やがて球形大の花となるアジサイの成長ぶりも日々楽しめた。
いや、そんな一つ一つのことより、あたり一帯の木や花や草がたっぷりと水を吸って気持ちよさそうに育っているさまを、ぼくはずっと見ていたのだった。
出掛けに聞いた天気予報では、雨は今夜から強くなるという。
雨の降る日、日の照る日……。
ともあれ今は、この道を歩いて行くだけである。(専門編集委員)
毎日新聞 2006年6月28日 12時27分