徳川家重臣だった井伊家の彦根城(滋賀県彦根市)は、約2キロ離れた佐和山城の石垣を再利用していたことが分かり、12日までに市教育委員会が発表した。他城の部材を使ったのは、徳川家側が豊臣家との戦いに備えて築城を急いだためと考えられ、中井均滋賀県立大教授(城郭史)は「当時の緊張感が伝わる発見」と話している。
彦根城は徳川家が1604年、諸大名に命じて築城を始めた。佐和山、安土、長浜などの各城の部材を再利用したことは江戸時代の文献に記されていたが遺物で裏付けられるのは初めてという。
佐和山城は、豊臣方の石田三成の居城として知られるが、関ケ原の戦い後は井伊家などが城主となった。
市教委は、最初に築かれたとされる「鐘の丸」の石垣を調査。彦根城の石垣は、ほとんどが湖東流紋岩だけで築かれているが、鐘の丸では湖東流紋岩とチャート(堆積岩の一種)の2種類が用いられていた。この2種類を使っていたのは県内では佐和山城だけだったことから石材を再利用したと判断した。〔共同〕