「八十八の八十八近く春の宵」。俳句仲間の小沢昭一が米朝の俳号八十八(やそはち)に引っかけて長寿を祈念して詠んだものだ。その米寿も超え、まさに功成り名遂げた落語家人生だった。
舞台に現れただけで客の顔をほころばせ、ファンを魅了した(2001年の落語会)
この2人はともに作家にして寄席研究家、正岡容(いるる)の弟子であった。この正岡容こそ米朝の生涯を決定づけた存在といっていい。落語好きでもプロになるつもりのなかった戦後間もなく、郷里の姫路で会社勤めしていた。
そこへ東京の正岡から電報がくる。「伝統ある上方落語復興に貴公の生命をかけろ」。このひと言で四代目桂米団治に入門、以来70年近い芸歴を重ねることになったのである。この間、上方落語の再興はもとより、人間国宝として落語家の頂点を極めた。
一門も大所帯になった。ただ、自身の後継については誤算が続いた。とりわけ爆笑落語で一時代を築いた桂枝雀は人気、実力とも師米朝に迫る勢いだっただけにその突然の死の衝撃は大きかった。おまけに古典落語で最も信頼を寄せていた桂吉朝にまで先立たれた。
今、落語ブームといわれる。米朝は「落語家の数はそうかもしれんが」ともらしたことがある。「落語は洒落(しゃれ)が命の、人をばかにした芸であり、落語家はいくら人気が出ようと世の中のおあまり」というのが口癖だった。「笑いは庶民の尊い文化だが、ブームになるとかそんな大層なものやない」とも。どこか浮ついた落語界の現状には違和感を覚えていたようだ。
舞台に現れただけで客の顔をほころばせ、端正で品格のある芸風は多くのファンを魅了した。「上方落語の不毛期に育ち、晩年になって米朝という巨人を得た。この幸福をどう表現していいかわからない」とは毎晩寝床で米朝のテープを聞いていたという司馬遼太郎の弁だ。その巨人を失った不幸こそ表現のしようもない。