稲葉篤紀さん=東京都中央区、小玉重隆撮影
■元プロ野球選手 稲葉篤紀さん
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190チームが出場する第98回全国高校野球選手権愛知大会が開幕した。日本ハムなどで活躍した稲葉篤紀さん(43)は、愛知県の中京(現・中京大中京)時代、甲子園へあと1歩届かなかった。当時を振り返ってもらい、後輩球児へのメッセージを聞いた。
――野球との出会いは。
やはり父ですね。草野球をしていて、そこに連れて行ってもらったことがきっかけです。少年チームに入ったのは小学校1年の時。本当は3年からしか入れないんですが、親が指導者に頼んでくれて。当時のポジションは投手と一塁手でした。
――高校は中京に進学です。
愛知にはたくさん強豪校がありますが、当時はどこへ行きたいというのも特になくて。所属していたシニアリーグのチームのつながりで中京のセレクションを受けたことが理由です。
――どんな高校時代でしたか。
監督も厳しい方でしたが、先輩の方が怖くて。下級生の頃は先輩に怒られないように必死でした。緊張感のない姿を見せないとか、エラーをしても声を出すとか、そんなことばかり考えていました。
朝はグラウンド整備をするのが伝統でした。毎日1時間近くかけました。1年のうちは駅から学校までの坂道を走らなければいけなくて。夜は午後9時ごろまで練習し、帰宅は10時。野球漬けの毎日でしたが、今思えば忍耐力が鍛えられました。
――2年の夏から主将です。
実は、恥ずかしい思い出があります。主将になって初日の練習が草むしりだったのですが、練習後の集合で、主将は先頭に立ちますよね。そこで僕、暑さで倒れちゃって。「大丈夫かな」というのが始まりでした。
同級生にも気を使うようになりました。個性があるというか、野球について自分の考え方を持っている選手が多く、同じ方向に向かせるのが非常に難しい。僕はもう、とにかく元気を出してプレーをするタイプで、自分が一生懸命やることでチームをまとめようと努めました。
――3年の夏は愛知大会決勝で敗れ、甲子園には届きませんでした。
イチロー選手(マーリンズ)のいた愛工大名電に5―4で負けました。裏方として打撃投手をしたり、ノックを打ったりしてくれた3年の仲間を甲子園に連れて行けなかったことが悔しくて、泣いてしまいました。
やっぱりね、やっぱり仲間なんですよ。いろんな馬鹿なこともやるし、本当に楽しい、ずっと一緒の3年間で。上下関係の厳しさ、練習の苦しさを一緒に耐え抜いた仲間で……。同級生とは今でもつながっていて、LINEのグループをつくっています。こういう絆は永遠に続いていくんだなって思います。
――甲子園に行けなかった経験がプロで生きたと思うことは。
あります。甲子園で目立ってからプロになった選手に、やっぱり負けたくないという思いがありました。僕は安打を2千本以上打ちましたが、甲子園に出ていなくてもプロでやれるんだよ、と伝えたい。ただ、甲子園に出た人は、やっぱりすごいと一目置いてしまいます。プロで立つ甲子園と、高校野球での甲子園は全然違うと思うから。
――愛知大会を迎える高校球児へメッセージを。
とにかく謙虚に、一生懸命にやってもらいたいな、と思います。野球をやれているのは、親やいろいろな方たちの協力が得られているから。感謝の気持ちを込めて、ひたむきに全力で、取り組んでいただきたいですね。(聞き手・関謙次)
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いなば・あつのり 北名古屋市出身。中京高、法大を経て、1994年のドラフト3位でヤクルトに指名され入団。2005年に日本ハムに移籍し、07年に首位打者。12年には通算2千本安打を達成した。ゴールデングラブ賞5回。14年に引退し、野球解説者のほか日本ハムの「スポーツ・コミュニティー・オフィサー」としてスポーツ振興活動にも取り組んでいる。