文化勲章受章を祝う会で。船村徹さん(左)と歌手の北島三郎さん
「王将」や「矢切の渡し」など4千を超す楽曲を生み出した、作曲家の船村徹さん(84)が亡くなった。多くの歌手や門下生が、追悼の言葉を贈った。
作曲家の船村徹さん死去 「王将」「矢切の渡し」
船村徹さんの訃報(ふほう)を受け17日、まな弟子である北島三郎さんと鳥羽一郎さんが、歌番組の収録後、東京都内のスタジオで会見を開いた。
うつむきながら、現れた2人。北島さんは「1カ月前に笑っていた人がこんなことになってしまう。命ははかない」と悔しさをにじませた。「でもね、今まで絶対に褒められなかったのに、あの時は『いい歌うたってるな』って話してくれたんですよ」と語った。
2人の芸名の名付け親でもあった。北島さんは「この道を歩いていく上で、この人が父親になるんだと。出会わなければ今の北島三郎はいない」と話し、「おまえはこぶしのきいた高い声だが、それは先輩にもいる。有名になれる歌手に育ててやる」と1962年に日本レコード大賞新人賞を受賞した「なみだ船」の誕生秘話を披露した。
鳥羽さんにとっては、内弟子として共に暮らし、デビュー曲「兄弟船」(82年)を作った恩人だ。譜面通りに歌えなくても、「おまえはそれでいい。俺が譜面を書き直す」とあたたかかったと振り返る。「最後にくれた曲『悠々と…』(16年1月)が遺書のようなんです。『たとえば俺が死んだなら』と始まるんでね」と涙を見せた。
北島さんも、師匠からもらった「大事な歌の明かりを消しちゃだめだ。歌に年齢制限はない」という言葉を披露した。関係者によると、今日の収録で、北島さんはすくっと立ち、高らかな歌声を響かせたという。(江戸川夏樹)
■歌手の舟木一夫さんの話
船村先生の訃報(ふほう)に接して、今はさびしいとか、悲しいなどという言葉では言い表せない気持ちです。
19歳のときに初めて曲を書いていただいて以来、60~70曲はいただいています。
僕が29歳から30歳のころ、歌手をやめようと思ったことがあり、夜中に突然、船村先生から自宅に電話がかかって来て、「歌手を辞めるって聞いたけど、本当か」「辞めるのは君の勝手だし、自由にすればいいけど、俺の大好きな『夕笛』はいったい誰が歌うんだ」といって、電話を切られました。その時、「男の仕事とは、歌手が歌を歌うということは、そういうことか」と思い、辞めるのを思いとどまりました。船村先生からの電話がなければ恐らく歌手を辞めていたと思います。一生の恩人です。
「巨星逝く」という古い言葉がありますが、まさにその想いです。先生が居て下さるだけで、流行歌の世界の重しとなっていました。
僕ら歌い手が、いただいた作品をそれぞれ歌っていくことが、供養でありご恩返しだと思います。
■歌手の瀬川瑛子さんの話
デビューしてからもなかなかヒット曲に恵まれずに、やめようかと苦しんでいたとき、先生が「矢切の渡し」などをプレゼントしてくださって、さらにレコード会社に「瀬川瑛子を信じてやれ」と言い続けてくださって今がある。歌は声が出ればいいと思っていたけれど、心が大切だと教えてくれたのも先生。歌と歌手に対する思いやりあふれた方だった。
■歌手の由紀さおりさんの話
JASRACの「昭和の歌人たち」というコンサートの司会を約8年前からしていて、先生をよくお招きした。3月1日にゲストで出てもらう予定だっただけに切なく、さみしい。先生は、情感をメロディーに乗せる歌謡曲の主流ともいえる曲を紡ぎ出す。ギターで弾き語りをすると、しみじみとすばらしい歌声を披露してくれる。先生から許可をもらい、美空ひばりさんの「哀愁波止場」を歌わせてもらっているが、この曲が、辛く寂しい宝物になってしまった。先生が亡くなった愛犬と愛猫のために作った「星が歌った物語」という曲を姉と歌わせてもらったが、その収録の時、ずっと泣き続けていた。本当に優しい方だった。
■「宗谷岬」を歌ったフォーク・デュオ「ダカーポ」の夫、榊原政敏さんの話
発表は1972(昭和47)年でした。私たちのほかにも歌っている人がいるのですが、NHK「みんなのうた」で紹介されて全国的なヒット曲となり、最北への観光ブームが起きたそうです。春の到来を喜ぶ最北の人たちの心情をテーマにした歌で、希望に満ちた明るい歌です。北国に住む人たちへの応援歌として歌い継がれていくと思います。
■演歌歌手・鏡五郎さんの話
僕は大阪の出身なので最初は「淀川」にちなんだ芸名をつける予定だったのですが、船村先生が「鏡五郎がいい」と名づけて下さったのです。理由はよく分かりませんが、何かひらめいたのでしょう。船村演歌というと、「男らしい」というイメージがありますが、ぬる燗(かん)のようにじんわりとした人情を感じさせる歌も多かった。友情をとても大切にした人でした。
■歌手の五木ひろしさんのコメント
船村先生の訃報(ふほう)を聞いて、突然のことで大変驚いております。
船村先生との出会いは、私が五木ひろしになる前、三谷謙の時代、10週勝ち抜きに挑戦した全日本歌謡選手権という番組でした。船村先生は審査委員として、私に優しい励ましの言葉をかけていただきました。あれからもう47年になりますが、10週勝ち抜きがなければ今の五木ひろしはありません。
船村先生の御恩を常に感じながら、あの時の先生の言葉が今も心に残っております。その後、いくつかの作品も私に作っていただきました。船村先生がこれまでに作られた名曲も、後世に歌い継いでいきます。
まだ信じられない気持ちですが、先生が亡くなられても、船村メロディーは永遠に人々の心に残り続けます。偉大なる作曲家、船村先生、心からご冥福をお祈りするとともに心から感謝申し上げます。これからも素晴らしい船村メロディーは私たち歌手がしっかりと継承していきたいと思います。
■船村さん最後の内弟子、歌手の村木弾さんの話
亡くなる3日前と10日前の2回、レッスンしてくださいました。レッスンが終わった後、「だいたいわかるよな。あとはお前次第だからな」とおっしゃって下さいました。
先生の内弟子として12年半、身の回りのお世話などもさせていただきましたが、兄弟子がみな巣立っていかれたあとの最後の3年間、ずっと一緒でした。毎日、お酒を飲んだり、テレビで野球や相撲を見たりしながら、たくさんお話を聞かせていただきました。また、色々なところへも連れて行っていただきました。
厳しいけれど、決して怖いということではなく、心の広い温かい先生でした。
■門下生だった歌手の走裕介さんの話
先日、文化勲章受章を祝う会でお会いした時は、長時間のイベントでしたので、途中「先生、疲れてないですか?」とお聞きしたら、「バッチリだんべよ、走くんこそ、気をつけろ」と言われてしまいました。本当にお元気になられて良かったな~と、兄弟子の鳥羽一郎先輩と話したばっかりだったのです。
とにかく、一番ビックリしているのは、船村先生だと思います。ひょっとしたら今頃、(親友で26歳で急逝した)高野(公男)先生に逢(あ)っているかもしれないですね。先生と過ごさせていただいた10年間の想い出たちが駆け巡っており、涙がとまりません。
■歌手の大月みやこさんの話
突然のご訃報(ふほう)に茫然(ぼうぜん)と致しております。お元気でお過ごしと伺っておりましたのに…本当に残念でなりません。昭和58年に「女の港」で私自身の歌世界を作り上げていただいて以来、私の大切な大切な恩人として長く敬愛申し上げておりました。今は、ただただご冥福をお祈りするばかりです。