横浜―PL学園戦で力投した横浜の松坂大輔=1998年8月20日
(1998年決勝 横浜9―7PL学園 その1)
あの夏ダイジェスト 1998年準々決勝 横浜×PL学園
延長17回、決着の時は不意に訪れた PLまさかの失策
松坂、PL戦の前夜は寝不足だった 「スキ見せては…」
延長十七回の名勝負を、わずか17日後に「伝説」へと昇華させた番組がある。
1998年9月6日に放送されたNHKスペシャル「延長17回~横浜VS.PL学園・闘いの果てに~」。「高校野球最高の技術と戦術を駆使した試合」として、勝負のあやとなるシーンを解き明かした。同年のNHKスペシャル最高視聴率15・9%をマークした。
Nスペでやるという決断は8月20日の試合直後に下された。ディレクターの森田智樹は午後8時、同僚と2人で中継映像のチェック作業を始めた。「1球1球を表にして、選手の動きなどを書きだした」と森田。作業は朝方まで続いた。
両チームに不思議な動きがあることに気づいた。
試合は二回、PL学園が横浜のエース松坂大輔から一挙3点を先行して幕を開ける。注目を集める超高校級右腕が先取点を許すのも、1イニングに2点以上とられるのも、今大会初めてのことだった。
どうして、こんなに打たれたのだろうか。
松坂が投げる直前、集音マイクが同じ声を拾っていた。
声の主は、PL学園主将で三塁ベースコーチの平石洋介。捕手の構えから球種を見破り、打者に伝達していたとインタビューで証言してくれた。
「際どいコースに構えた時は、だいたいストレート。逆に大きく、どこでも捕れるように構えると変化球。けっこう分かりました」
三塁側の横浜ベンチも、目の前にいる平石の行為に気づき、捕手の動きから球種を見破られていると判断した。
「いけいけ」と叫んだら、ストレート。
「狙え狙え」と言ったら、変化球――。
「ただ、あの内容はちょっと違ってるんですよ」。森田が苦笑しながら打ち明ける。証言を裏付ける映像を整理したところ、一致しないケースがあることに気づいた。それで平石に確認に行くと、「これ以上は勘弁して下さい。後輩はこれからも試合がありますから」と懇願された。
「それなら彼の証言のまま番組にしようと判断した」と森田。平石の思いをくみ、配慮したのだ。
■三塁コーチの声、「ぼくは聞こえてへん」
真実は、どうだったのか。
「取材を受けているうちに勘違いされていると気づいたが、そのままにしたんです」
あの夏から16年が経った2014年秋、プロ野球楽天でコーチをしていた平石が真相を語ってくれた。
「あれはコースです。本当は3種類あったんですよ」
相手のサインやクセを盗んで伝達する行為はその後、高校野球では禁止となった。もう手の内を明かしてもいいと判断したのだろう。
「いけいけ」は外角。
「狙え狙え」は内角。
そして、もう1種類。
「絞れ絞れ」が変化球。
「特別なことではなく、PLでは代々やっていた。横浜も似たことをしていたから気づいたんでしょう」
二回裏の攻撃を検証してみよう。
5番大西宏明が中前安打でまず出塁する。2ボール、1ストライクからのカーブをたたいた。三塁コーチの平石の声出しは「狙え、狙え、狙え!」。
変化球と見破った時の伝達だと横浜ベンチが勘違いした声だ。本当は内角球と教えるかけ声だが、実際はほぼ真ん中だった。
ただし、大西は「ぼくは聞こえてへん。単純に松坂と勝負し、ヒットを打った。はっきりそう書いて欲しい」と力説する。コースや球種が判別できたら声で伝達する方法は約束事としてあった。ただ、利用するかどうかは各打者に任されていたという。
さらに三垣勝巳の犠打野選、石橋勇一郎の送りバントで1死二、三塁。左打席に入った先発投手の稲田学は「松坂の直球は僕には打てん。打てるとしたら変化球」と腹を決めていた。2球目、そのスライダーをとらえた。
「狙え、狙え」
ここでも三塁コーチの平石は声を出している。稲田の記憶は定かではないが、「聞こえていたような気がする」。捕手が内角に構えているという合図の声だ。その内角へ、スライダーが入ってきた。打球はセンター前へのライナーに。横浜・加藤重之に直接捕球されたが、俊足の大西が三塁からタッチアップ。先制の生還を果たした。
■指示通りのスイングでタイムリー
なお2死二塁で9番松丸文政が右打席へ。春の選抜大会から通算して12打数無安打。身長170センチの二塁手は守備力を買われて起用されていた。前日、コーチの清水孝悦に「お前はベタ足で打て」と言われた。「イチ、ニイのサンで打つのではなく、イチ、ニで打つ感じです」。さらに「第1打席、最初の直球を狙え」。
変化球が2球続いた後、その直球が来た。指示通りのスイングで完璧に打ち返す。自身の甲子園初安打は中堅越えのタイムリー二塁打となり、球場も、横浜ベンチもざわめき始めた。
「9番の松丸君に完璧な二塁打を打たれたでしょ。あれで松坂の球種が盗まれていると確信した」
横浜の渡辺元智監督は言う。PL学園の三塁コーチが捕手の動きから解読し、声で打者に伝えていることにも気づいた。
横浜は、声出しが3種類あったことまでは分かっていない。ただ、三塁コーチの平石が目立つ動きをしたのは間違いない。「自分に何ができるかを考えた」と平石は言う。「松坂攻略は難しい。だったら捕手を混乱させようと」
わざと捕手を凝視し、大声を出した。すべてが当たったわけではないし、生かされたのでもない。平石も「甲子園は広いし、ちゃんと聞こえてなかったと思う。僕らは打倒・松坂を目標に日々練習してきた。その成果が出たんです。そもそも球種やコースが分かったからと言って、打てるような投手ではないんです」と語っている。
しかし、結果的にPLは二回裏に一挙3点を先行し、横浜ベンチを混乱させた。利き腕の左肩を手術し、満足にプレーできなかった平石が主将になったのは、こうした野球眼、知識と無縁ではない。
「松坂世代」と後に呼ばれる選手たちが躍動した98年夏。その頂点に立つこの試合は、17日後にNHKスペシャルで放送され、3カ月後には「ドキュメント 横浜VS.PL学園」(朝日新聞社)が出版されている。
高校野球がノンフィクションの題材としても認知された伝説の一戦は、まずPLが優位に立った。
=敬称略(編集委員・安藤嘉浩)