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松坂、PL戦の前夜は寝不足だった 「スキ見せては…」

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2017-8-3 6:43:06  点击:  切换到繁體中文

 

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京都成章との決勝、ノーヒットノーランで春夏連覇を達成し、第80回記念大会を締めくくった横浜の松坂。捕手小山、かけ寄る三塁手斉藤=1998年8月23日


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(1998年決勝 横浜9―7PL学園 その3)


あの夏ダイジェスト 1998年準々決勝 横浜×PL学園


激闘を制した横浜の校歌斉唱が終わり、両校の選手が応援席へ向かった。「拍手の音が、いつもと違っていた」と、PL学園のエース上重聡が振り返る。


一塁側アルプス席に一礼したPLの選手たちは、主将の平石洋介にうながされ、三塁側の横浜応援席にも頭を下げた。「向こうにも礼を言いたいと思ったんです」


ベンチ方向へ戻る選手の頭上から、拍手が降り注ぐ。「バックネット裏にもあいさつするぞ」と平石が言い、PLの選手らは本塁付近に並んで3度目の礼をした。


一塁ベンチ前で、何人かの選手が土をとり始めた。上重はアイシングをしていたこともあり、土を持ち帰れなかった。試合後のインタビューで、「思い出は甲子園に置いてきました」と笑顔で話した。


■「横浜が負けるのを見たくない」


横浜の松坂大輔は「PL学園の強さは特別です。野球人生で一番苦しい試合でした」と語った。そして「明日は投げられません」と打ち明けた。


翌8月21日の準決勝、松坂はレフトを守った。


PL学園の3年生部員は同じ日、野球部寮から自宅へ戻った。上重と稲田学はその前に、学校近くの店でお好み焼きを食べた。テレビで横浜の準決勝を中継していた。明徳義塾(高知)に0―6と大量リードを許していた。


上重はテレビを消した。「横浜が負けるのを見たくなかった」


横浜が追い上げていると聞き、再びテレビをつけた。


大逆転で翌22日の決勝に勝ち上がった横浜は、松坂の無安打無得点試合で京都成章を下して春夏連覇を達成する。PLの古畑和彦、大西宏明、井関雅也、稲田はスタンドで、その様子を見届けた。「やっぱ松坂は化けもんやな」と井関は感激した。


横浜戦で痛恨の悪送球をした遊撃手の本橋伸一郎は同じ日、名古屋市内の自宅から新幹線で東京へ向かった。進学を希望する日大の野球部練習会に参加するためだ。移動中、「がんばってね」「野球をやめないで」と声をかけられた。「自分は逃げられないことをやっちゃったんだな」と思った。


約2週間後の9月6日に、この試合を題材にしたテレビ番組「NHKスペシャル」が放映された。本橋はその中で、「もう一回やってみたいですね」と語っている。


日大進学後、本橋はボールを投げられなくなる。「頭で考え始めると、投げ方が分からなくなって」。緊張で筋肉が硬直するイップスだ。4年時は主に一塁を守った。「大学は卒業しなさい」と父に言われ、6年かかって卒業した。現在はスポーツマネジメント業などの経営者をしている。


「自分にはよかったのかな、と思ってます」。立ち止まることもあったが、少しずつでも前に進んできた。「エラーもせずに終わっていたら、何も残らず中途半端だったんじゃないか。あの失敗をプラスにできてると思うんです」


それぞれの延長戦は、今も続いている。


「平成の怪物」松坂は、大リーグから日本球界に復帰したが、故障もあって1軍のマウンドには上がっていない。


あの夏の記憶は鮮明だ。


「あの日は前夜、2時間ぐらいしか寝られなかった。第1試合だから4時起き。渡辺元智監督から『睡眠薬いるか?』と聞かれたけど、もらわなかった。PL戦ということで気持ちが高ぶったのかな。寝不足で球場へ移動するバスで寝ちゃった。試合前のブルペンで体が動かなくて、やばいなと思った。そういうスキを見せてはいけないチームでしたね、PLは」


■「今までで一番苦しい試合」


PL学園の三塁コーチをしていた主将の平石が、捕手の構え方から球種やコースを見抜いたこともあり、序盤戦は苦しんだ。延長に入ってからも、十一回、十六回とリードしては追いつかれた。


「PLは強かった。リードしても勝ったとは思わなかった。このままずっと続くような気がしていた。みんな疲れてるし、ちょっとした気の緩みから、負ける可能性がある。どっちがミスをするか。それがきっかけになると思った」


十七回、2死からPLに守りのミスが出た。直後に常盤良太が決勝2ランを放ったときは、三塁ベンチ前でキャッチボールをしていた。


「打った瞬間は、どこへ飛んだか見えなかった。球場がワーッとなって、ああ入ったんだ、と。感動しました。あの回、常盤が『おれが打ってくる』と言いに来た。エラーの直後に打席に入ったんで打ちそうな予感はあった。まさか本塁打とは思わなかったけど」


試合後、「今までで一番苦しい試合だった」と語った。


「重圧がかかる試合は経験したけど、いまだに、あれ以上に苦しい試合はない。ぼくは十三回あたりから再試合を意識していた。十八回引き分け再試合になったら、自分がいくしかない、と。試合が決着し、気持ちがフッと切れた。渡辺監督が『4連投はさせない』と言ってくれていたのを思い出し、試合後の取材で『明日は投げません』と言っちゃったんです」


準決勝は大逆転、決勝は無安打無得点試合で頂点に立った。


「ぼくは完封で締めたいと思っていた。だけど、周囲は『それだけ?』という雰囲気があった。自分たちが一番自信を持っていたのは守備力。決勝も安打になってもおかしくない打球があった。バックがいてくれたから、安心して打たせることができた」


大リーグ移籍後は常盤が自主トレの練習相手をするなど、当時の仲間との縁は続いている。「松坂世代」も30歳代後半になる。


「そのくくり方が最初は嫌だった。同世代の人に申し訳なくて。平気になったのは何年も経ってから。一般の人に『ぼくも松坂世代です』と言われた。『ありがたいです。自己紹介なんかで便利なんですよ』と話してもらえて。役に立つこともあるのなら、それでもいいのかなと思えたんです」=敬称略(編集委員・安藤嘉浩)




 

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