「水俣病を告発する会」の抗議集会に参加した石牟礼道子さん=1970年5月、東京・日比谷
石牟礼道子さんの語録
言葉を奪われた患者の魂、世界文学に 石牟礼さん死去
特集:石牟礼道子さん死去
「後にくる者たちに残すよすがの物を、わたしたちは持たなくなってしまいました。なんという世の中の変わりようでしょう。言葉というものさえ、はたして伝わるものかどうか、おぼつかないかぎりに思えます」(1990年)
「不知火海域でおかされたチッソと国と地方行政の『過失』は、私人が私人に対して働いた不法行為だったのだろうか。それは生命界に対する、天人ともに許さざる公法的犯罪だったのではないか」「不知火海のほとりに生きてきた漁民は、自然の恵みの中にあって、おのずと人の生きる道をわきまえながら、日々を律してきた人びとであった。そういう人びとが祖霊たちの宿る海辺に加えられた暴虐を問いただそうとするとき、訴えることのできた手段が、近代市民社会における私法上の損害賠償しかなかったことを考えると、暗然たる思いに包まれる」「世界を覆いつくした異様な人喰(く)い文明の最初の供犠の地となった水俣。ここから今なお発せられるメッセージとは、産業至上の文明に喰いつくされる国土とすこやかであった魂の形見の声ではなかろうか」(1993年)
「この人たち(水俣病患者)は命とひきかえに、構造化した近代日本の病巣の中心部を探りあて、わが身の骨の火をかざし、そこへ分け入ろうとしているのではないか。秘蹟(ひせき)の地に立ちあい、わたしもためされています」(95年)
「チッソの幹部たちが言ってることは保身のためとか、その場逃れのいいわけだったり、患者さんは一目で見抜いて、気の毒にも思っている。『あなたは何の宗教ば信じとりますか』などとしみじみ尋ねるんですね。修羅場なんですけれど、しだいに人間が試される聖域に変わっていくのです」(2000年)
「(水俣病との出あいについて…