関東一の米沢貴光監督
勝利のために何ができるのか、土壇場まで考えられる選手。今の関東一で求められる理想の選手像だ。監督の米沢貴光(42)が、その大切さを思い知ったのは、高校球児としての最後の打席だった。
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1993年の第75回選手権大会東東京大会決勝。関東一の6番打者だった米沢は、ほとんどの球児が経験しない状況に立っていた。1点差を追う九回表2死二塁。二塁走者が本塁に戻れば同点、アウトになればゲームセット。ベンチで指揮していたのは、現在日大三の監督・小倉全由だった。
マウンドには、のちにプロ野球・巨人やメジャーリーグなどで活躍した修徳の左腕・高橋尚成が立っていた。この大会で打率4割超えの米沢に、高橋はすべて直球で勝負に挑んできた。フルカウントから2球ファウルで8球目。米沢は外角低め直球を見逃すと、審判はストライクの判定。3年間、目指した甲子園が逃げていった。
あれから25年、米沢はこう振り返る。「サヨナラの場面に強かったけど、あの場面だけ打つイメージがわかなかった。あの時は冷静じゃなくて、考えられなかった。あそこで考えられるよう、練習で準備をしないと、だめなんだな」
だからこそ、関東一では普段の練習から状況を細かく設定し、選手の対応能力を高めていく。1点差の九回で逆転する場面のほか、走攻守すべてで実戦を意識させる。「失敗の後に言っても遅い。やるなら、その前から。うちは目に見えない部分を鍛える」
米沢は、中央大、社会人のシダックスを経て、00年秋、25歳で監督になった。当時の関東一は、94年の夏以来、甲子園出場はなかった。弾丸ライナーの本塁打、140キロ近い速球。若き指導者は、目に見える技術を追い求めて、早朝から夜遅くまで、とことん練習をやりきった。
04年春、都大会で優勝し、第1シードを獲得したが、夏の大会ではあえなく初戦敗退。05年夏は5回戦、06年夏は4回戦で競り負けて、1度も甲子園に手が届かなかった。米沢自身も毎日の練習で、精神的に疲れ果てていた。
転機になったのは、06年冬、知人の紹介で新潟明訓の監督・佐藤和也(現・新潟医療福祉大監督)と出会ったことだ。「佐藤さんが監督業を楽しんでいて、自分も余裕が持てるようになった。目に見える部分を鍛えても届かないなと思うようになった」
07年春、帝京に六回コールドで敗れて、今のスタイルにがらりと指導を変えた。すると、その秋の都大会で優勝。08年春の選抜大会出場をはじめとし、ここ10年で春夏通じて8回、甲子園に出場した。「猛練習イコールメンタルだと思ったけど、勝つことにつながってなかった」
米沢が高校生の時と比べて、今の高校球児は個人の技術を高められる環境にいる。プロ野球に加えて、メジャーリーグの試合も見られるようになり、SNSでは有名選手が練習法や野球理論を発信する、そんな時代になったからだ。
「もちろん、個人として、技術を磨いて140キロ、本塁打は目指す必要はある。僕にとって、指導者は技術を教えることが一番じゃない。チームが勝つにはどうすればいいか、選手が自分で考えられるようになること」=敬称略(阿部健祐)
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よねざわ・たかみつ 1975年、東京都江戸川区生まれ。関東一を経て、中央大、社会人のシダックスで野球を続ける。現役時代は内野手と外野手。肩を痛めて現役引退し、00年秋に監督に。12年春の選抜大会、15年夏の選手権大会で4強入りした。同校事務職員。