「力まずに投げた方が早く届くよ」と部員に指導する石川さん=2018年5月29日午後6時7分、沖縄県うるま市
1958年の夏。沖縄県勢として甲子園に初出場したのは首里高校だった。地方大会決勝で代表の座を争ったのは石川高校。優勝候補と言われて臨んだ大会で夢破れた当時の主将、石川善一さん(78)は、今も甲子園をめざしている。
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「ランナーも声出して」
沖縄県うるま市にある石川のグラウンド。バックネット裏に陣取った石川さんがマイクで声を張り上げる。ミスがあると、容赦なく激しい言葉を浴びせる。自宅はグラウンドのそば。練習が休みの月曜以外、指導者として姿を見せる。捕手の新島練真君(17)は「厳しいけど、良いところはほめてくれるからうれしい」。
石川さんは太平洋戦争が始まる直前の39年生まれ。戦後、米軍基地の米兵が野球に興じるのを見ながら育ち、自然と野球を始めた。石川に進むと頭角を現し、投手として活躍した。
3年生で迎えた58年の大会は40回の節目。当時、夏の大会は全都道府県から代表が出場する仕組みはなく、沖縄は九州の他県の代表に勝つ必要があった。だが、この年には特別に沖縄にも出場枠が与えられた。
甲子園――。石川さんの胸は高鳴った。その年の選抜大会には石川さんのほか、首里、那覇、コザの3校から1人ずつ招かれた。
「頑張って、君たち4人の中から来なさい」。日本高野連副会長の佐伯達夫さん(故人)に言葉をかけられた。「石川が行きますから」。コザの安里嗣則さん(78)がそう答えるほど、当時の石川は強かった。
沖縄大会の初戦でコザ、準決勝で那覇を下す。だが決勝で、首里の軟投派の投手に打線が封じられ、0―6で敗れた。
甲子園で選手宣誓したのは首里の主将。ラジオを聞きながら「勝っていたら……」と悔しさが募った。卒業後は地元の社会人野球を経て、本土へ。本土復帰後、沖縄に戻り指導に携わった。石川は75年と89年に県代表になるが、その後は遠ざかっている。石川さんの夢は母校をもう一度、甲子園へ導くことだ。
「野球は自分の人生そのもの。自分は行けなかったから、どんなことがあっても3回は甲子園に行こうと決めた。あと1回です」(宮野拓也)