国吉園さんは追加刻銘で平和の礎に刻まれた妹の新垣京子さんの名前に声を掛ける=2018年6月23日午前10時59分、沖縄県糸満市の平和祈念公園、松本俊撮影
戦後73年の慰霊の日。沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園や各地の慰霊碑で、早朝から多くの人が静かに手を合わせた。戦没者の名が刻まれた「平和の礎(いしじ)」に、今年新たに追加刻銘されたのは58人。そこには、激しい地上戦と戦後の混乱で記録から漏れた幼い命もあった。
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読谷村の国吉園(その)さん(83)は、今年新たに刻銘された妹・新垣京子さんの名の前に座り、お菓子を供えた。「70年間もほったらかしにしてごめんなさい」。肩を揺らして涙を流した。
沖縄戦当時10歳だった園さんは米軍が上陸する前、母ナルさんと、生後1年ほどだった京子さんと3人で、沖縄本島中部の読谷村から北部の国頭村(くにがみそん)辺土名(へんとな)に疎開した。馬車で2日かかったことを覚えている。
集落から数キロ離れた山中の小屋で過ごした。母は食料を求めて集落と行き来し、京子さんの面倒を見るのは姉の園さんの役割で、いつもおぶっていた。
母は食料を探しに行き、米兵に撃たれて死亡した。「今日も行ってくるよ」と手を振る姿が最後になった。
京子さんは母乳を欲しがった。園さんは夜の間もおんぶを続け、荷物に突っ伏すようにして眠った。京子さんは徐々にやせ細り、ぐったりした状態が続いた。やがて眠ったままになると、二度と目を覚ますことはなかった。
戦後、園さんは家族でブラジルに移民。豆腐屋や縫い物屋を営んで生計を立てた。1990年代になって沖縄に戻った。
95年にできた平和の礎には、母や戦死した父の名はある。でも、京子さんの名前はなかった。礎が造られる際、県や市町村が把握している戦没者名簿を元に刻銘者の調査が行われたが、そのことを園さんは知らなかった。「私がブラジルに行っていなければ、こんなことになっていなかったんだけどね」と後悔の念にさいなまれていた。
頭を離れない幼い妹。刻銘は半ば諦めていたが、「年もとってきて、今のうちにやっておかないと」と追加刻銘を申請。認められたときは「本当かね、と信じられなかった」。
戦後73年にして、やっと刻まれた。園さんは涙を拭いた。「何度も夢に見た京子に、やっと会えた気がする。これで京子がいたことが永遠に残せた。喜んでくれているかな」
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