瀬戸内海に浮かぶ長島(岡山県瀬戸内市)。かつてここに、国内13カ所の国立ハンセン病療養所で唯一の高校があった。強制隔離政策が根強かった約60年前、この高校の野球部員たちにとって、甲子園とは夢のまた夢の場所だった。
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岡山県立邑久(おく)高校新良田(にいらだ)教室は、高校の併設校として、患者たちが暮らす国立療養所「長島愛生(あいせい)園」の敷地内に1955年に開校した。
戦後、ハンセン病は治療薬ができ「治る病気」になった。しかし強制隔離を前提とする法律が53年にでき、戦前から続く隔離政策が96年の廃止まで続いた。患者組織は自由と権利を獲得しようと運動し、療養しながら勉強ができる新良田教室ができた。全国の療養所で暮らす若者が狭き門をくぐり、進学や社会復帰の希望を胸に長島へ渡った。
野球少年だった藤崎陸安(みちやす)さん(75)=秋田市出身=は小学校低学年で感染が分かり、52年に松丘保養園(青森市)に収容された。10代前半で両手指の関節に障害が残るなど病気の影響が出たが、園内で野球を楽しんだ。高校野球では53年から甲子園のテレビ実況が始まった。プロ野球は西鉄ライオンズが56~58年に日本シリーズ3連覇。59年、天覧試合で巨人の長嶋茂雄が活躍した。「スポーツと言えば野球。甲子園もプロも憧れだった。でもかなわぬ夢で別世界だった」
その59年、藤崎さんは新良田教室の5期生として入学。野球部(軟式)に入った。当時部員は20~30人。愛生園に入所する大人のチームや、外部から遠征に来た社会人チームと、日曜になると試合をした。
藤崎さんは俊足で1番打者。「手が不自由で投げるのは大変だから守りは一塁手。足が速かったので外野を守ることも。その時は内野手が中継に入った」
ただ、隔離政策下では他校に赴いての試合はできなかった。修学旅行もない。2年の時、部員の中で「修学旅行もできないなら、それに代わる行事をやろう」「療養所の外に出て試合をしたい」との声が上がった。旅に出られる部員10人による「遠征」を計画した。
特別な理由がないと島を出られない。10人は家族の病気などと偽り、夏休みの一時帰省を願い出た。西鉄ライオンズを模したユニホームと野球道具だけを持って別々に島を出た。岡山駅に集合し、鉄道と徒歩で静岡、東京、群馬、宮城の各都県の療養所に赴き、入所者や職員のチームと対戦。8月下旬、10試合近くを負けなしのまま最終地の青森に到着した。
途中で計画が露見し、愛生園からの「帰還命令」が行く先々の療養所に届いていた。10人は「この試合が終わったらすぐに帰ります」と言い残し、次へと向かった。藤崎さんにとって「凱旋(がいせん)」となった青森では入所者チームに勝利。だが、職員チームは硬式の高校野球経験者らを擁する強豪。0―1で初黒星を喫した。2学期が始まる9月が近づき、10人は足早に岡山へ戻った。
患者の減少に伴い入学者が減り、野球部も数年後になくなった。新良田の生徒が公式に修学旅行に行けるようになったのは「遠征」から15年後の75年だった。
「遠征」に出た10人の大半は進学や就職をした。藤崎さんは足のけがや家庭の事情で青森に戻った。入所者が重症者の世話などをする「患者作業」の撤廃など、劣悪だった生活の改善を求める自治会活動に携わる。現在は全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)の事務局長を務める。
全療協の事務局は東京都東村山市の多磨全生園(たまぜんしょうえん)にある。園内のグラウンドを利用する中学生の野球チームにアドバイスをすることもある藤崎さん。毎夏、全国高校野球選手権の地方大会や甲子園の中継が何よりの楽しみだ。「高校野球で甲子園を目指すことができず、観戦すらできなかった若者がいたことを今の球児にも知ってもらいたい。そして輝かしい青春の一ページとして、ひたむきに、見る人へ感動を与えるプレーをしてほしい」(雨宮徹)