敷地面積250坪、南向き、通勤徒歩1時間。これが奈良時代のマイホーム? 奈良の都・平城京(710~784)の外れで、奈良時代の下級役人が暮らしていたとみられる住宅跡がみつかった。奈良市埋蔵文化財調査センターによれば、一度の調査で住宅跡の全体が出土するのは珍しく、奈良時代の下級役人の生活が具体的にイメージできる遺構として注目される。
【特集】奈良を歩こう
平城京は碁盤の目状に走る道路で区画され、中枢部の皇居や官公庁街にあたる平城宮から南に向かって走る朱雀大路を境に東の左京、西の右京に分けられていた。平城宮から南に離れた京の周縁部まで碁盤の目状に細かく区割りされ、下級役人らの宅地が広がっていたとみられる。
センターは7月下旬から、平城京南端とされる九条大路の北側の3825平方メートル(奈良市西九条町4丁目)を調査。住宅総合メーカーの大和ハウス工業(本社・大阪市)が所有する工場跡地で、新たな建物建設に伴う発掘調査だった。
調査の結果、4区画の住宅跡が出土。建設された年代は、奈良時代中ごろから平安時代前半にかけて計5時期にわたり、1区画の敷地面積は時期によって異なるが、東西約31~34メートル、南北約27メートル。現代で言えば約250~約280坪の広い敷地だったとみられる。
奈良時代の8世紀中ごろ~後半の1区画については、その敷地の全体が発掘され、ひさし付きの主屋(おもや)とみられる東西約10メートル、南北約4メートルの建物跡が出土した。南向きだったようだ。同じ敷地からは、倉庫とみられる建物跡(東西約3・2メートル、南北約3・4メートル)と2棟の建物跡、井戸跡なども確認された。須恵器や土師器(はじき)の皿、杯(つき、器)が出土したが、瓦の出土量は少なかった。
平城宮までは約4キロ。ここに役人が暮らしていたとすれば、片道約1時間かけて徒歩で通勤していた可能性もある。大阪府文化財センターの田辺征夫(いくお)理事長は「現代で言えば、大手住宅メーカーが宅地造成した一戸建てが並ぶ住宅地のようだったのでは」とみる。
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