中学時代は不登校だった生徒が、皆勤賞で高校を卒業しようとしている。宇治市の京都翔英高校の吉川哲也君(18)で、部員19人の軟式野球部で主将を務めた。22日の卒業式では、クラス代表として証書を受け取る。
中学では野球とは別の運動部に所属していた。1年生の1学期、部活の先輩から言われた。「3日学校を休んだら部活をやめないとあかんからな」。冗談だったのかもしれない。しかし、すでに週に1日ほど休んでいた吉川君は、練習に来るなと言われているように感じた。部活にも学校にも行きづらくなった。
夏休みの宿題も終わらず、学校に行くことが怖くなった。2学期から不登校になった。自宅ではテレビを見たり、寝たり、たまにゲームをしたり。時間が過ぎるのを待つ毎日。午前2時ごろに寝て、正午ごろに起きることが多かった。友人と連絡を取り合うこともなくなった。
出歩けば同級生に会うかもしれない。会えば休んでいる理由を聞かれるかもしれない。そう思うと外出するのが怖かった。休めば休むほど、さらに行きづらくなった。体育祭や合唱コンクールの練習には参加したが、授業にはほとんど出られなかった。
3年生の夏、母親から京都翔英高校に不登校経験者向けのクラスがあることを聞いた。登校は午前10時半。「ここなら無理せず通えそうだ」と思った。
入学前、高校の教諭から「不登校だった自分から変われますか」と聞かれた。「変われます」と即答した。家族に心配をかけていた自分を変えたいと思っていた。
入学後は休まなかった。1度休んだらずるずるいってしまう。ちょっとしんどいくらいで休んだら大人になったときに困るやろ。自分に言い聞かせて登校。小学生のときに少年野球をしていた経験があり、軟式野球部に入った。初めは授業と部活についていくだけでいっぱいいっぱいだったが、2年生になってそれが当たり前になった。
野球も苦労した。一塁から二塁までの送球が届かない。思った以上に筋力が落ちていた。少しでも周りに追いつこうと、だれよりも大きな声を出した。
森田敦也監督(28)はそんな姿をじっと見ていた。吉川君は2年生の7月、監督に呼ばれて主将に指名された。務まるのかなと不安だったが、せっかく認めてくれたのだからやってみようと思った。監督は「一番声を出し、プラス思考のことしか言わないので、ぜひやってもらおうと思った」と明かす。
主将だから練習も授業も休むわけにはいかない。そんな気持ちが強くなった。毎日の練習後、自主練習を重ね、3番打者、一塁手の定位置を守り続けた。
3年生の夏の府大会は初戦で敗れた。法事以外で1度も練習を休まないまま引退した。授業の欠席もゼロ。「ここまで来たら皆勤賞をめざす」と意識し、そのまま卒業式の日が迫ってきた。
中学時代について「周りにどう思われているのか気にしすぎていたのかも」と振り返る。高校では「完璧でなくていいし、そんなに気を張らなくていいとわかって変われた」という。
卒業後、宇治市の京都文教大への進学が決まっている。大学でやりたいことや、志望の職業はまだ見つかっていない。高校時代と同じく、焦らず一歩ずつ進むつもりだ。(興津洋樹)