科学力 平成時代、この約30年間の日本の科学を振り返ると、2度のサリン事件や福島原発事故など、社会の「科学不信」につながる事件や事故が続いた一方で、2000年以降はノーベル賞の受賞が相次ぎ、日本の基礎科学の水準を世界に示した。グローバル化が進む中、国力の源泉としての科学力に注目が集まり、世界では科学への投資と成果をめぐる激しい競争が起きている。 研究費や研究人材、イノベーションの課題などの枠組みをどう整えいけばいいか。科学研究の成果が社会に引き起こす問題をめぐり、我々はそれをどうコントロールしうるか。ポスト平成の「科学のゆくえ」をめぐって、さまざまな課題について識者に聞く。 今回のインタビューでは、平成年間の日本の科学技術を、科学技術行政の司令塔である内閣府総合科学技術会議の初代議員を務めた井村裕夫さんに振り返ってもらう。 ――平成の30年間、日本の科学技術を国の施策の面から振り返ってください。 平成が始まった1989年、国の科学研究費補助金(科研費)は500億円以下でした。いまの4分の1です。バブル景気にわき、日本の技術力は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるほど上がっていましたが、基礎研究にはお金が回っていませんでした。 基礎研究を支える国立大学の研究施設は、老朽化の問題を抱えていました。私が京大学長になったばかりの92年、京大の施設の老朽化を特集した雑誌「アエラ」の記事を読み、大学全体を見て回ったらすべて事実でした。司馬遼太郎さんが激賞したアイルランド文学の蔵書のある文学部の図書室はサッシが壊れて、雨水でぬれないようにテントをはってあり、そこにハトが巣を作っていました。文部省は当時、800億円ほどの施設整備の年間予算を持っていたが、バブルが崩壊して土地が処分できず大学の整備は進みませんでした。日本の科学技術政策はかなり貧弱だったといえるでしょう。 ――90年代に、立法の大きな動きとして科学技術基本法が成立しました。当時の状況は。 バブル崩壊をきっかけに、95年に議員立法で科学技術基本法が成立しましたた。5年ごとに基本計画を作って科学技術振興に努めると明記され、96年に第1期基本計画が作られ、科研費の増額とポスドク(博士研究員)制度の拡充をめざすことになりました。科研費が増え始め、今は2千億円を超えています。基本法の成果はあったと思います。 98年に、私は科学技術会議の議員就任を要請されました。会議は総理直轄で、省の枠を超えて活動できると期待したのですが、議員になってみて力のなさを痛感しました。首相が出席する会合は年に2回ほどしか開かれず、事務局も科技庁の事務方が担当しており、省庁からの独立性という意味では片肺飛行でした。 せっかく議員になったのだから何かしたいと思い、私的な委員会の位置づけで、専門家を呼んでバイオサイエンスについて議論しました。海外ではヒトゲノム計画が進んでいました。日本では大学改革が進まず、日本の研究力の低下に対する危機感から、独立した研究機関を作り、大学との間で人事交流をして、大学ができないことをやろうと、いわゆる「新幹線構想」をまとめました。 ――そのころ、科学技術政策への政治の関与はどうでしたか。 基本法の成立後、政府には、科学振興によって日本を発展させたいという強い意向を感じました。自民党の「科学技術創造立国推進調査会」は力のある組織で、会長は山崎拓さん、議員には加藤紘一さん、細田博之さん、谷垣禎一さん、尾身幸次さんと強力な布陣でした。 そこに、我々はまとめた構想を持ち込んで議論しましたが、予算がないので進展しませんでした。あるとき小渕恵三首相から声がかかり、「新しいミレニアムが迫り、ミレニアムプロジェクトを動かしたい。議論の中身を聞かせてほしい」と言われました。 構想の中身はゲノム医学、発生再生医学、イネゲノムなどの植物科学の研究所です。いい機会なので、懸案課題だった「バイオリソースセンター」計画も押し込みました。さまざまな実験動物や細胞、遺伝子を保管して研究者に提供する施設です。それらがミレニアムプロジェクトで動き始めました。政治の側に持ち込んだことが実を結んだのです。 ――2001年には省庁再編がありました。 科学技術庁と文部省が統合して文部科学省になり、内閣府に「総合科学技術会議」が設置され、科学技術会議では2人だった常勤議員が4人体制に増強されました。生命科学系から私、理工学はノーベル賞の白川英樹さん、ほかに民間と人文社会系から一人ずつです。約60人の独立した事務局スタッフがいて、毎月1回1時間、首相と関係閣僚が参加して本会議を開くことを原則にしました。 ――科学技術は票には結びつかないので政治家の関心は低いといわれますが、当時の閣僚の科学への関心はどうでしたか。 本会議が増えたことは、とりわけ首相に科学に関心を持ってもらう上で意義があったと思います。小泉純一郎首相は始めは科学技術に関心が強くないようにも見受けられましたが、メカが好きだという情報があり、説明するときに委員は工夫をしたものです。燃料電池車の模型を持ちこみ、会場の長机の上で走らせてみせると、総理はいたく気に入って。「オレ、これ買いたい。いまいくらぐらいするの」と。「試作段階だから1億円ぐらい」と答えると、「それじゃ総理の給料じゃとても買えない」と大笑いになりました。 そんな風に次第に科学技術に関心を持ってもらえたのは毎月の本会議のおかげです。実質的な議論もしました。燃料電池車の話題を出したのは1997年に京都議定書が採択され、地球温暖化問題が深刻になる中で、日本としてかじを切っていくべきだと考えたからです。水素製造の問題を解決できれば燃料電池車は実現できる。そんな情報も耳に入れて、小泉首相の関心を引くことができました。 ――省庁の動きはどうでしたか。 一部に抵抗がありました。2001年に総合科学技術会議が発足して初めての科学技術基本計画(第2期)を決める際、「総合科学技術会議を日本の科技政策の司令塔とする」という文言を入れようとして、もめました。各省が反対する中で、非常勤議員だった東レ会長の前田勝之助さんが懸命に支援し、準備会合で各省を一喝してくれて、なんとか司令塔の位置づけが固まりました。 毎年1、2月は専門家から学問の最新の動向を聞き、予算の基本方針、特に重点分野を決め、その後、各省の状況を聴き、5月には翌年の概算要求の重要事項をまとめます。それに基づいて8月までに各省が概算要求予算を決め、9月からは科学技術に関する重要な事業についてヒアリングし、S、A、B、Cの評価を下します。最後に、財務省と話し合いを持ちます。そのような年間のサイクルが固まっていきました。予算の決定権は財務省にあるので我々は意見を言うだけですが、予算にかなり反映してくれたと思います。 ――04年に議員を辞めた後、政権が交代しました。 そのしくみが崩れ出したのは民主党政権のころと思っています。11年に「医療イノベーション推進室」が内閣官房につくられ、臨床医学関係の研究事業は内閣府(総合科学技術会議)ではなく内閣官房が担当することになりました。政権が自民党に戻った後もその路線は引き継がれ、推進室は15年に国立研究開発法人「日本医療研究開発機構」(AMED)として独立しました。アメリカのNIH(米国立衛生研究所)にならった予算配分機関です。 部分的とはいえ科学技術関係予算が総科学技術会議からはずれることで、科学技術全体を見渡す役割が変わり始めたと思います。安倍政権下の2015年には、総合科学技術会議は「総合科学技術・イノベーション会議」に改組されて常勤議員は一人になりました。非常勤だと省庁と連絡を取り、話し合うことはできません。現在の議員には自然科学系の学者も少なく、企業の議員が多いのですが、科学技術の司令塔としては少し弱体化した印象を私は持っています。そうでなければよいのですが。 ――会議を率いる常勤議員を、自然科学出身の学者が務める意味は大きいのでしょうか。 私の経験で言えば大きいと思います。研究者は国の研究費をもらうために、「研究計画書」を提出しますが、文科省の役人が研究者に対して「なぜ研究が計画書通りに進んでいないのか」と詰問することがあります。しかし研究では、計画通りにできることはほとんどありません。たくさんの「想定外」に出くわしながら、粘り抜いて道を見つけていくのが研究です。イノベーションとなるとさらに別の問題があります。政治家ならまだしも、官庁の役人にそれがわからないのはショックです。研究の苦労がわかっている自然科学の研究歴のある人が常勤議員を務めることには意義があるのです。 ――近年の日本は科学力が低下していると言われています。この30年間の科学技術政策と関係がありますか。 国立大学への支援が減ったことが一番の原因でしょう。また研究費の出し方にも問題があります。安倍政権の科学技術政策はイノベーション重視で、出口指向が強すぎます。私は臨床医なので、科学技術を社会に応用することの大切さは理解しているつもりですが、基礎研究を抜きにしてイノベーションをやれば、アイデアはすぐに枯渇します。基礎研究あってのイノベーションです。 外部から見た印象ですが、科学技術政策についても官邸の意向が強くでているのではないでしょうか。官邸が指導力を発揮することは必ずしも悪いことではありませんが、科学者の意見を政策に十分に反映できていないように感じます。その例が政府が進める大型のプロジェクトの研究費です。多くは5年プロジェクト。大きな額をもらって研究者やスタッフを雇っても、5年経った後も研究を続けられる保証はありません。研究費が切れないよう、次のテーマに乗り換えていかねばなりません。 お金の出し方を考えないと研究の質が低下し、研究不正の原因をつくることにもなりかねません。そもそも、基礎的な研究にはそれほど大きなお金はいらないものも多く、一度にたくさんお金がくることはかえってよくない面があります。そのような研究現場の実情を理解している人の存在が科学技術政策にはぜひとも必要です。科学者が政治に助言できるしくみが、いまは非常に弱くなっているのではないかと感じます。 (聞き手・嘉幡久敬) 井村裕夫(いむら・ひろお)京都大名誉教授、稲盛財団会長。専門は内分泌代謝病学。京都大医学部長、同総長、国立大学協会長を歴任し、2001年から04年まで内閣府総合科学技術会議の初代議員。 |
「平成」の30年、日本の科学を振り返る 井村裕夫さん
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