車椅子から指示を出す蜷川幸雄さん=2015年3月、彩の国さいたま芸術劇場、宮川舞子氏撮影
自分の美意識から外れることを「恥」とする心と、世の理不尽や無理解に対する「怒り」。この二つを抱えて、演出家、蜷川幸雄は走り続けた。
演出家の蜷川幸雄さん死去 80歳「世界のニナガワ」
蜷川幸雄さん逝く
西洋の古典であるシェークスピア劇やギリシャ悲劇を、日本で生まれ育った者の感覚で読み解き、大胆に視覚化した。「マクベス」は仏壇の中、「テンペスト」は佐渡の朽ちかけた能舞台で演じられた。「王女メディア」の嘆きには津軽三味線の音が寄り添った。
目指したのは、日本人が演じ、見て、恥ずかしくない舞台。戯曲から普遍性を引き出し、アジアの民衆の記憶と交差させ、自分が納得できる表現を探った。
これは当初、西洋に規範を置く評論家らに批判された。しかし、観客は舞台のおもしろさを支持した。戯曲の本質を射抜き、アジアの美意識で彩る舞台は海外でも高く評価された。英国をはじめ、各国に繰り返し招かれ、ファンを広げた。作品の力が蜷川を「世界のニナガワ」に押し上げた。
創作をともにした劇作家の清水邦夫や唐十郎への敬意から、蜷川は原則として戯曲に手を加えない。代わりに演技、美術、照明、音響、衣装などを総動員して言葉と対峙(たいじ)した。勝負は開幕3分。鮮やかなイメージで観客を劇世界に引き込んだ。
特に冴(さ)えたのは、群衆場面だ。舞台上に人々の多様な生きる姿を配し、ドラマを、名もなき人々のまなざしの中で展開させる。蜷川自身の目も、いつもその中にあった。
演出家として闘い続けた。若者たちを認めない新劇界を飛び出し、商業演劇では演出家を侮る俳優に灰皿を投げた。海外では、異国趣味への関心にとどまる批評に「俺は西洋の補完物じゃない」と、かみ付いた。
強く激しい人には、傷つきやすい魂が宿っていた。自身の商業演劇の演出が原因で劇団の仲間と決別した日の孤立感を、終生抱いていた。病やけがに見舞われた清水や唐の旧作を次々上演し、盟友を励まし、支えた義俠心(ぎきょうしん)もまた、蜷川の一面だった。
70歳を超えてからも延べ100本を演出。高齢者劇団では、市井の人々の老いを「表現」に昇華した。
口癖は「枯れた老人にはならない」。理想を追う意志が、弱ってゆく体をむち打ち、走り続けた。
酸素吸入、車椅子で稽古をした15年春の「リチャード二世」では、和服の衣装、約60人の老人と若者が踊るタンゴ、海を表す巨大な布、空飛ぶ王冠など、蜷川演出の精髄である多彩なイメージを次々繰り出した。蜷川の舞台は最晩年まで、みずみずしく輝いていた。(論説委員・山口宏子)
■戦い続けた、かっこいい父
長女で写真家の蜷川実花さん(43)は自身のインスタグラムに格子越しに撮った花の写真を投稿。「今日、父が逝ってしまいました。最期まで闘い続けたかっこいい父でした。父の娘でいられたことを誇りに思います」と書き込んだ。