記帳に訪れ、プミポン国王の肖像を前に涙を流す男性。壁には、2006年にタイを訪問した天皇陛下と会談する写真が飾られていた=14日午前、東京都品川区の在日タイ大使館、林敏行撮影
タイのプミポン・アドゥンヤデート国王が死去し、日本国内でも悲しみが広がった。人柄をしのぶ声や、政情不安な母国の将来を懸念する声も聞かれた。
東京都内の在日タイ大使館では14日、国王の遺影が飾られ、記帳台が設けられた。バンコク銀行東京支店のナポン・チュンプラパヌソンさん(26)は「子どもの時から国王の話を聞き、前向きに生きていく大切さを学んだ。お父さんのような存在だった」と悼んだ。
タイではタクシン元首相派と反タクシン派の対立が深まり、2014年には軍部が事態収拾を理由にクーデターを決行、政情不安が続く。東京都豊島区でタイ料理店を営む重信サクンシィリさん(51)は「色んなグループがいるけど、国のために一生懸命頑張ってくれる国王がいたから、国民がまとまってきた。将来、国が分裂しないかとても不安です」と話した。
都内の別のタイ料理屋「オーキッド」で働くラット・チャダワンさん(49)は13日夜、国王死去の報に厨房(ちゅうぼう)で泣き崩れ、5分ほど仕事が手につかなかった。国王は心の支えだったという。ラットさんはスマートフォンの画面上の様々な涙を流す「スタンプ」を見せながら言った。「タイ人はみんな泣いている」
タイと交流する人も国王の死去を悲しんだ。「音楽に造詣(ぞうけい)が深く、タイの自然を愛した優しい方でした」と振り返るのは、天理高校(奈良県天理市)の元吹奏楽部指揮者、新子(あたらし)菊雄さん(63)。1982年に全日本吹奏楽連盟の推薦で生徒約50人とバンコクを訪問し、国王が作った曲を披露した。演奏が終わっても拍手を送り続けた国王は「録音テープをください」と大使館を通じて求めてきたという。
その後、新子さんは年に1回はタイで吹奏楽を指導し、タイの学生も天理高校で練習に参加するように。新子さんは「国王は日本とタイを音楽でつないだ。感謝の気持ちでいっぱいです」と話した。(矢島大輔、小林孝也、山内深紗子)
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日本とタイ友好の象徴として知られ、プミポン国王から寄贈された額が飾られる覚王山日泰(にったい)寺(名古屋市千種区)。額には「尊いお釈迦(しゃか)様」という意味の文字などが記されている。
代表役員の鷲見弘明(すみこうめい)さん(82)は「あんなにタイ国民に尊敬されていた人はいなかった」と死を惜しんだ。プミポン国王に直接3回会ったといい、「背が高く、握手をした手はがっしりとしていた」と振り返る。
印象に残るのは1984年、タイで初めて会った時だ。国王は、お土産として渡した太陽光発電の庭園灯に興味を持ち、「これは直流か交流か」と質問。日本側の派遣団が答えられないと、国王は笑いだしたという。通常は10分程度だという歓談は、2時間にも及んだ。「何度もお会いして懐かしさもあるし、残念です」(神野勇人)