第1次南極観測隊53人・乗組員77人を乗せた観測船「宗谷」が東京・晴海埠頭(ふとう)を出航したのは1956年11月8日。まもなく60年を迎える。オゾンホールや隕石(いんせき)の発見、オーロラ観測、氷床掘削など、これまで日本隊は多くの成果をあげてきた。その第一歩となる「船出」を、元隊員や支えた人たちに振り返ってもらった。
■基地設営、厳しい環境で試行錯誤
「行ってやってみないとわからないことばかりだった」。基地の設営担当として参加した平山善吉さん(82)は語る。
最年少の22歳で1次隊に選ばれた。日大山岳部出身で、大学4年のときから準備にかかわった。「零下60度、秒速60メートルの風に耐えなくては」。出発前、基地の設計で議論を重ねた。
重機もなく、素人の手で短時間で建てなくてはならない。簡単で頑丈な構造として考えたのが「マッチ箱方式」。まず強い外枠を組み立て、内装を施す。これが後のプレハブ建築の原点となった。
南極に行って初めてわかり、困ったことも。足元は土でも氷でもなく、岩盤だった。資材が強風で飛ばされないように網をかけて固定しようとしたが、金具を打ち込めない。
「あのときに南極で試行錯誤したことが、建築以外でもその後の日本で様々な分野に生かされている」。冷凍食品や即席ラーメンがその代表例だ。