1985年夏場所14日目、千代の富士をつり上げる若嶋津〈左〉(ベースボール・マガジン社提供)
■土俵 時を超えて〈1985年夏場所14日目〉
相撲特集:どすこいタイムズ
初、夏、秋と3度本場所が行われる東京・両国の国技館で、年45日間、一度も負けなかった関取はいない。横綱千代の富士が最も惜しかった。こけら落としを迎えたこの年、計44勝1敗。唯一土をつけたのが、夏場所14日目に相まみえた大関若嶋津だった。
優勝はすでに、13日目まで白星を連ねた千代の富士に決まっていた。この場所にかかっていた若嶋津の綱とりも消えていた。それでも名勝負に数えられるのは、若嶋津が不利の予想を覆したから。何より、この一番が熱かったからだ。
取組前まで、若嶋津の2勝15敗。鹿児島県出身で「南海の黒ヒョウ」と呼ばれた若嶋津は、「ウルフ」千代の富士を大の苦手にしていた。だがこの日、若嶋津が先手を取る。
立ち合い後、横綱に左前まわしをつかまれたが、すぐに左を差した。寄り立てられ、胸が合った瞬間、右上手まわしを引く。
左四つは、若嶋津の形。万全ではなかった。「(右)上手まわしをつかむ指が3本だったから」。いつもは、何重にも巻かれたまわしの隙間に、親指を除く4本の指を下からねじ込む。この時は、力を込める人さし指が入らなかった。
「千代の富士さんはレベルが一つ上。引きつけられたら動けない」と若嶋津は動いた。得意のつりを繰り出し、千代の富士の投げをしのぐ。勝機は一瞬。両差しを許した若嶋津は直後に左を巻き替え、外掛けで相手のバランスを崩した。右をしぼり、寄る。攻めて攻めて、ウルフを仕留めた。1分21秒の大相撲に、万雷の拍手が送られた。
身長は188センチの若嶋津が5センチ高いが、ともに体重120キロ台と細身。どちらもりりしい顔で、もてた。今後も名勝負を期待された2人の力士人生は、この一番を境にするように分かれていった。
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千代の富士はこの年6月に30歳になり、いよいよ黄金期を築き始める。一方、28歳だった若嶋津の成績は下降線をたどる。「30歳が近づいて痩せてきた。張りがなくなってくると、自分で分かるから」
若嶋津の入門時の体重は70キロ台。師匠の二子山親方(初代横綱若乃花)から「ワリバシ」と笑われた体は、食べ物を詰め込んでもこれ以上大きくならない。鍛えても、自慢の上半身に力が湧いてこない。翌名古屋場所で左肩などを負傷。衰えが顕著になった。
内面にも変化があった。「勝ちたい気持ちが強くなりすぎたのかな。頑張らなきゃってね」。85年に結婚。相手は、出会う前からファンだった同郷の歌手、高田みづえさんである。結婚を機に仕事を辞め、支えてくれた。
あの夏場所の後、87年名古屋場所中に引退するまで、白星は1桁どまり。この間千代の富士とは10度戦い、一度も勝てなかった。だから、最後の白星は記憶に色濃く残っている。
「長い相撲で勝てたからね、そりゃ、うれしかった。(千代の富士は)目標だったから」。60歳の若嶋津(現二所ノ関親方)は、昨年夏に亡くなった大横綱をしのんだ。
おもむろに両手の小指を見せてくれた。「曲がらないんだよ」。師匠の教えは「まわしは小指で取れ」だった。小指からしぼるようにまわしを狙うと、脇が締まり、相手を引きつけられる。小指に負担をかけたが、そのかわり、細い体で強者たちと渡り合えた。優勝2度。綱には届かなくても、愛されてやまない大関だった。(鈴木健輔)