1990年W杯イタリア大会得点王のスキラッチ氏。引退後に植毛し、選手時代とは雰囲気が変わった
引退後の人生はそれぞれだ。サッカーのワールドカップ(W杯)1990年イタリア大会得点王で、J1磐田でもプレーしたサルバトーレ・スキラッチ氏(52)は、イタリア南部の故郷シチリア島でサッカースクールを続ける。ボールを蹴って貧しさからはい上がった経験を、次の世代に伝えようとしている。その拠点を訪ねた。
シチリア島最大の都市・パレルモ中心部から車で約20分。住宅街の大通り沿いに、「SCUOLA CALCIO TOT●(●はOに`付き) SCHILLACI」と記すエンブレムを掲げた一角があった。大小の人工芝ピッチ5面とオフィスやロッカールーム、ダンス教室にカフェバーも併設したスポーツ施設だ。
5~18歳の約300人が所属。放課後になるとボールを追いかける子、それを応援する保護者でにぎわう。パレルモとの対戦に訪れるイタリア1部のクラブが、試合前日練習で利用することもある。
国営TVの解説者を務めるスキラッチ氏は、2000年から施設のオーナーになった。仕事のかたわら、空き時間に指導に訪れる。5月中旬、15~16歳の練習ピッチに、シュートやボール扱いをアドバイスする姿があった。
スキラッチ氏はパレルモの中でも、最も貧しい地区で生まれ育った。盗み、けんかは日常茶飯事。「パレルモでも最悪と言われていたところ。多くの友人も道を外れてしまった」。そんな中、スキラッチ氏は、今自身がオーナーを務める施設の前身「リボッラスポーツセンター」で活動するチームに誘われ、サッカーに打ち込んだ。
当時、1点を決めるたびに1千リラ(190~330円程度)をくれる大人がいたという。「ある年は80点以上決め、8万リラもせしめたよ」と笑った。「おかげで学校の友人と遊びに行け、貧しいというコンプレックスを克服できた。お金以上に愛情をもらった」。1982年にメッシーナにスカウトされ、プロ選手の道がひらけた。その後は、セリエAのユベントス、インテル・ミラノで活躍し、イタリア代表でW杯に出場。「トト」の愛称で人気を集め、94年からは磐田でプレーした。
磐田で現役引退直後の98年、故郷に戻ったスキラッチ氏は、荒れ果てた自身の原点の地を目の当たりにした。1面だけのピッチはでこぼこの土、4軒の建物もぼろぼろだった。日本円で1億8千万円以上を投じ、改修。「自分にチャンスをくれた人とサッカーへの恩返し。恩はまだまだ返せていないよ」
オーナー就任後、これまで3人の出身者がセリエAに進んだ。ただ、スクールの哲学は「サッカーを通じ、一つのことをみんなで成し遂げる喜びを教えること」。15人ほどいる指導者には、サッカーのうまさに関わらず、全員を試合に出すように、との方針を伝えている。
毎年、自身の生まれた地区から20人程度をスクールに集める。裸足で来た子には靴を与え、続けたい子にはスクール費を免除する。不登校の子が、学校に通うようになった。プロになれなくても卒業生が定職に就き、街で声をかけられた。それが最大の喜びという。
そうした取り組みを進めても、「全員を救うことはできていない」と表情を曇らせた。それでも、「一つでも多くの笑顔が生まれる限り、これを続ける」。
日本にも思いをはせる。「私が磐田にいた頃に比べ、日本は景気が良くないと聞く」。近年は日本でも子どもの貧困の問題があると伝えると、こう語った。
「貧しい子どもたちへ。必ず希望は訪れる。自暴自棄にならず、来たチャンスをつかむ準備を続けてほしい。そして大人たちは、すべての子どもにチャンスを与えて。この二つが、『トト』からのメッセージです」(藤木健)