横浜前監督の渡辺元智さん(左)と大阪桐蔭の西谷浩一監督=大阪市北区の朝日新聞大阪本社、細川卓撮影
高校野球の風景に、監督は欠かせない。甲子園で春夏計5度の優勝を誇る渡辺元智(もとのり)・前横浜監督(72)と西谷浩一・大阪桐蔭監督(47)。2人の名将に、思い出の試合から育成論まで熱く語り合ってもらった。
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――思い出深い試合は。
渡辺前監督 愛甲猛世代の1980年夏、準決勝の天理戦が私の指導者としての分水嶺(ぶんすいれい)になった。中断するほど激しい雨。試合再開して七回表に1点先取され、その裏は下位打線。これはダメだと思ったら、8、9番がタイムリーを打った。
8番打者にアドバイスした言葉が今も生きている。「1割バッターはバットを振らないから打てないんだ。結果はいい。1球目から振っていけ」。選手を信頼して初めて言葉にした。
西谷監督 私のベストゲームは2008年夏の準決勝、横浜戦です。私たちにとって特別な学校。全員野球で9―4で競り勝って、そのまま優勝することができた。私自身も自信がついた試合です。
06年に対戦して勢いで勝ったが、スクイズのサインを出したら、渡辺監督と小倉清一郎部長がベンチで動いた気がした。すぐに取り消したら、それはダミーだったようで何もなかった。08年はスクイズを決めることができ、これで勝てるんじゃないかと思った。
渡辺 よく覚えている。えらい監督が現れたな、と思った。スクイズも警戒していた。6点目かな。やられたな、と思いました。
――原点となった試合は。
渡辺 監督になって2年目の69年夏、原貢監督率いる東海大相模に神奈川大会の決勝で敗れた。だけど、中学の番長だった生徒たちが頑張った。野球は人生そのもの。白いボールの中に人生がある。野球は教育という理念につながる分岐点になったのはこの試合ですね。
西谷 私は上宮太子に敗れた01年夏の大阪大会決勝です。監督3年目。中村剛也(現西武)が4番で、2番に2年の西岡剛(現阪神)がいたが、延長の末に5―6で敗れた。ベテラン山上烈監督と私の差です。今でも夢に見るぐらい忘れられないし、忘れてはいけない試合です。
――目標とした監督は、渡辺さんは原さんですか。
渡辺 私が指導者になったころ、彗星(すいせい)のごとく現れた監督。三池工(福岡)を率いて優勝し、東海大相模の監督として神奈川に来られた。「打倒・相模」「打倒・原貢」で猛練習したが、甲子園につながる大会ではことごとくやられた。だから懐に飛び込んだ。近寄りがたい雰囲気もあったが、受け入れてくれた。すごい包容力があった。一緒に酒ものんだ。あの人がいたから春夏連覇を達成するチームもつくれた。
西谷 私は中村順司さんです。対戦したのはコーチ時代ですが、当時のPL学園はすごい選手がいない年ほど、すごみを増す。あと1球でうちが勝つというところから、右前安打、右前安打と続いて、気づいたらPLの校歌が流れている……。
――横浜、大阪桐蔭とも勝つだけでなく、卒業後も長く活躍する選手が多い。育成の秘訣(ひけつ)を。
渡辺 目標を持たせること。高校の3年間だけじゃない。プロ野球の時代だけでもない。最後は人生の勝利者になれ。そういう野球でなければ意味がない。選手が「また言っている。うるさいな」と思うぐらい、ミーティングなどで徹底的に意識を植え付ける。
野球だけでガツガツやっていたら、逆にプロでもいい結果が出ない。心を鍛えることは保険になる。
西谷 教師になりたての頃、校長に「育てられる教師になりなさい」と言われた。教えることができる教師はたくさんいるが、育てることができる教師はなかなかいない、と。必要なのは信頼関係。一方的に教えるだけではだめ。この人に教えてもらいたい、ついていこうと思ってもらえる教師でありたいです。(司会・構成=編集委員・安藤嘉浩)