信沢智恵子さんの母つねさんが関口亮共さんに書いた手紙とはがき=川崎市川崎区の明長寺
戦争は終わったが、郷里の群馬県高崎市に戻ることなく、シンガポールの地でBC級戦犯として絞首刑となった元軍医がいた。彼はなぜ、死ななければならなかったのか。(編集委員・豊秀一)
「生き物殺さぬように」 絞首刑の元軍医、妻と娘に遺書
高崎市の主婦信沢智恵子さん(79)の元に6月上旬、手紙が届いた。26年前に他界した母あてだった。
差出人は東京の出版社。BC級戦犯として刑死した人々の遺族からの手紙やはがきが川崎市の明長寺で見つかり、母の手紙もあったという。「貴重な歴史的資料」として出版に理解を求める文面。ここで住職を務めた関口亮共(りょうきょう)さん(故人)は敗戦直後、教誨師(きょうかいし)として刑死者の最期を見届け、預かった遺書を遺族に届け続けていた。
父の死について母は口を閉ざし、智恵子さんも子供たちに語ることができなかった。その父、寿(ひさし)さんは旧陸軍の軍医。戦後、イギリスの軍事裁判で捕虜虐待の罪で死刑判決を受け、1947年2月25日、シンガポールのチャンギ刑務所で絞首刑とされた。
「主人の最後はどうでございましたでしょうか。どのような苦しみをいたしました事かと案じられてなりません……」。明長寺で見つかった手紙を読み、母の深い悲しみと父の無念さを思うと、二人にどうしても伝えたくなった。「私はきっちり生きていきます」
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高崎市内で医院を営んでいた寿…