第73回大会 初出場で初優勝を決めて喜ぶ大阪桐蔭の選手たち=1991年8月21日、阪神甲子園球場
鮮烈なデビューだった。1991(平成3)年8月21日、第73回全国高校野球選手権大会の決勝。大阪桐蔭は前年準優勝の沖縄水産(沖縄)に勝ち、初出場、初優勝を決めた。
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両チームで計29安打と激しい打撃戦。大阪桐蔭は一回裏に2点を先取したが、沖縄水産に序盤で6点を奪われた。しかし五回裏、一気に6点を挙げて逆転し、13―8で勝った。
当時副主将で、東洋大野球部ヘッドコーチを務める井上大(44)は「負けたらどうしようという焦りや不安はまったくなかった」と言う。「打撃練習ばかりしていたので、きっと打てると思っていた」
監督は営業マンから転職した長沢和雄(67)だった。
長沢は関大一高でエース、4番。しかし、甲子園は遠かった。3年のとき、興国が第50回大会で初出場、初優勝を飾った。テレビに映る同学年の興国のエース丸山朗(67)の姿に、長沢は「ただただうらやましかった」と振り返る。
関大でも4番を打った。エースは、後に阪急で活躍する同学年の山口高志(67)。大学日本一を経験した。卒業後、長沢は大丸に入社し、全日本でも4番を任された。
午前中は大丸心斎橋店(大阪市)の寝具売り場で働き、午後は高槻市内のグラウンドで野球に精を出した。しかし、30歳のとき、野球部が休部になった。現役引退を決めたが、「野球に携わる仕事がしたい」と退社。スポーツ用品メーカー「SSK」に中途入社した。
2年目に念願かなって野球用具のセールスを担当。東海、関西、四国など各地の高校野球部に足しげく通っては自社商品の特長を説明し、グローブやバットを納めた。「この営業が本当に勉強になった。各監督の指導方法を、じっくり見ることができた」
関大の先輩から思わぬ誘いがあった。「行ってみないか」。88年、大産大高校大東校舎が新たに大阪桐蔭として独立し、監督を探していた。38歳。20年ぶりに甲子園が目標になった。
80年代はPL学園の全盛期。「エースと4番。軸があるチームが強い」。営業マン時代に見た強豪校はみな共通していた。そこに社会人野球を味付けした。「一つの型にはめると選手の特色が出ない」。選手の自主性を大事にし、打撃練習に熱がこもった。
長沢のチームづくりが実ったのは創部4年目、91年の夏。大阪桐蔭は大阪大会準決勝で、前年優勝の中村紀洋(44)=元近鉄、ドジャース=のいる渋谷を破り、選手権大会準決勝では松井秀喜(43)=元巨人、ヤンキース=擁する星稜(石川)に打ち勝ち、決勝で打撃戦を制した。
長沢の後を継いだのが現監督の西谷浩一(48)だ。長沢は営業マンの頃に報徳学園(兵庫)の部員だった西谷に出会った。西谷は長沢の母校・関大に進み、大阪桐蔭の指導者になった。
大阪桐蔭は夏4回の全国制覇を達成し、この夏も優勝すれば、PL学園の優勝回数を超える。今や全国の球児があこがれるチームに成長した。
「一球同心」。長沢が残した言葉が今も部訓として残る。一球に対し、選手の気持ちが一つになる。長沢は言う。「高校野球の原点。これが続けば、高校野球はずっと輝く。そう信じている」=敬称略(室矢英樹)
大阪桐蔭 優勝までの戦績(第73回大会)
【大阪大会】
1回戦:8-1 磯島
2回戦:7-1 門真西
3回戦:9-6 北陽
4回戦:12-2 羽曳野
5回戦:2-0 三国丘
準々決勝:8-1 大商学園
準決勝:6-1 渋谷
決勝:8-4 近大付
【選手権大会】
2回戦:11-3 樹徳(群馬)
3回戦:4-3 秋田(秋田)
準々決勝:11-2 帝京(東東京)
準決勝:7-1 星陵(石川)
決勝:13-8 沖縄水産(沖縄)
(校名は当時)