八代亜紀の作品「ハンサムボーイ」
八代亜紀といえば、「演歌の女王」。だがここ数年はジャズやブルースでも充実した活動を展開し、各地の美術館で油絵の個展も開く。今月末に来日するフレンチポップスの人気歌手、シルビー・バルタンの公演にもゲスト出演。さらに表現の場を広げている。
歌手を志すきっかけは、小学生の頃に父に聴かされたジャズ歌手ジュリー・ロンドンのアルバムだった。ハスキーな声がコンプレックスだった八代にとって、ロングドレスをまといハスキーな歌唱で心を揺さぶるジュリーは、将来の目標になった。“フレンチポップスの妖精”として一世を風靡(ふうび)したシルビー・バルタンもハスキーボイスの持ち主。日本でも大ヒットした「アイドルを探せ」(1964年)や、レナウンのテレビCMでの歌声が、多感な年頃の八代の心に焼き付いた。
「ジュリーもシルビーも、歌手と女優というふたつの道で成功している。世界がもうひとつあるというのはプラスの相乗効果があるんです。私にとっては歌と絵ですね」
バスガイド勤務、銀座のクラブシンガーを経て71年にデビュー。73年の「なみだ恋」でブレークを果たした。歌番組の全盛期でスケジュールはぎっしり。空港から公演先への移動中に点滴を打つことも珍しくなかった。「舟唄」(79年)、続く「雨の慕情」(80年)で歌謡界の頂点に。紅白歌合戦の大トリも務めてからは「少し肩の荷を下ろそうと活動をセーブしました。それでもコンサートが年間240本ぐらいあった」。体が悲鳴を上げ、激しい腰痛で朝4時半に鍼灸(しんきゅう)院に駆け込んだことも。それでも絵はやめられなかった。
「仕事に障るからダメだと言われると、なおさら……。描き始めると朝まで描いてしまう。迎えに来たマネジャー(後に結婚)に『描いてない!』とうそをついても、『顔に絵の具が付いてますよ』って」
見かねたマネジャーが絵のための休養日を確保するようになり、箱根にアトリエも設けた。「絵は趣味から本職になりました。おかげで心が疲れないし、病気もしなくなった」。フランスの「ル・サロン展」には5年連続で入選し、永久会員の称号を得てゲスト出品を続けている。
書にも打ち込む。「道具を整えて、墨をすって……、ひとつひとつの所作に心を込めて一連の流れに身を置くと、心が洗われて幸せな気持ちになるんです」
自己を表現するのが絵画と書。歌もそうなのかと思いきや、「歌は違う。私は代弁者」と言い切る。「さまざまな愛の形を歌いますが、こんな女性がいますよと、誰かのことをこの声で届けているだけ。それがお客さんの人生や心情とオーバーラップするようです」と八代。
「いろんなお手紙をいただきます。『死のうと思っていたけれど、歌にほおをたたかれた』という方も」。美術やジャズは小難しそうでと敬遠していた人々が「亜紀ちゃんがやっているなら」と心を開いてくれるのもうれしいという。
2012年にはジャズアルバム「夜のアルバム」を発表。翌年にはニューヨークの名門ジャズクラブ「バードランド」に出演を果たし、あこがれていた大御所のヘレン・メリルとも共演。ジュン・スカイ・ウォーカーズの寺岡呼人のプロデュースで、15年にはブルースアルバム「哀歌―aiuta―」も作った。
「ジャンルというより、リズムにひかれるんです。ジュリー・ロンドンならボサノバの作品がいちばん好きだし、バスガイド時代のお給料で買ったのはビートルズの『ロック・アンド・ロール・ミュージック』。ジャズを歌っても、バラエティー番組に呼ばれても、お隣に『こんにちはー、元気?』って訪ねていくような感じですね」と八代。
「でもね、洋楽を歌ったら、演歌もビシッと聴かせたい」。そんな気持ちを体現したのが16年のフジロックだった。4万人収容の会場に、ロックミュージシャンたちをバックに登場。B・B・キングの代表曲「ザ・スリル・イズ・ゴーン」に続けて“必殺技”の「舟唄」で大歓声を浴びた。
いろいろな機会を与えられる中で、次の目標が見えてくるという。「目前に控えたシルビーさんとのステージも楽しみ。いつかフランスでもコンサートを開いてみたい! ――こんな風に、つながっていくんですよね」
八代亜紀がゲスト出演するシルビー・バルタン公演は31日にNHK大阪ホール、6月1日に東京・Bunkamuraオーチャードホールで開かれる。問い合わせはキョードー東京(0570・550・799、sylvievartan2018.com)。(藤崎昭子)