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奇跡のバックホーム、アウトにされて「俺の人生の原点」

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-6-14 18:38:45  点击:  切换到繁體中文

 

(1996年決勝 熊本工3―6松山商)


27・431メートル先にある栄冠へ。熊本工の三塁走者・星子崇は右翼手が飛球をつかむと同時にタッチアップのスタートを切った。本塁へ滑り込んだその時、目の前に白球が現れ、捕手のミットが顔をかすめる。4万8千人の観衆が沸き返ると、星子は本塁上で灰色の空を仰いでいた。


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十回裏、熊本工1死満塁。本多の右飛で、三塁走者星子は本塁を突くが、松山商の右翼手矢野の好返球でタッチアウト。捕手石丸



歓喜と落胆が入り交じった甲子園。十回裏1死満塁から起きたこのプレーは、「奇跡のバックホーム」として語り継がれていく。


1996年8月21日。熊本工は悲願へ王手をかけていた。川上哲治(元巨人)がエースだった第23回大会以来、59年ぶりの決勝進出。熊本勢としても初となる深紅の大優勝旗が手に届くところまで迫っていた。


試合前からベンチ内には緊張感が漂った。「独特な雰囲気にみんな圧倒されていた」と星子は振り返る。準々決勝、準決勝と1点差を制して勢いに乗っているはずのチームだが、選手たちの会話は普段より少ない。一回、いきなり先発の園村淳一が松山商打線につかまった。2者連続の押し出し四球もあり3点を失った。


打線も元気がない。相手の2年生右腕・新田浩貴を攻略できず、1点差で九回へ突入した。2者連続三振であと1人に。だが、主将の野田謙信はわずかな期待を抱いていた。「あいつなら何かやってくれそうな気がした」。視線の先には、6番打者の沢村幸明だ。中学時代に軟式野球で全国制覇し、部員100人超の名門で定位置をつかんだ1年生は「まだ終わりたくない」。初球を振り抜くと、左翼ポール際へ起死回生の同点ソロが飛び込んだ。


ベースを1周した沢村に抱きついた星子は「流れは完全にこっちだ。いける」。延長十回の攻撃はその8番星子から始まった。カウントは3ボール。2球「待て」のサインのあと、フルカウントから左中間への二塁打で出塁した。この打席、星子に変化があった。「じつは初めて監督のサインを見た」。身長180センチで50メートルを走れば5秒8。野球センスは誰からも認められていたが、「監督の言うことをまったく聞かずに反発ばかりしていた」と星子。新チーム発足時は中軸を打っていたが、自分本位のプレーが目立ったため打順は徐々に下がっていった。


「初めて本気でチームを勝たせたいと思った」と言う星子が次打者のバントで三塁へ進むと、松山商も動いた。敬遠の四球二つで満塁策をとった後にもう一手。星子に打たれた直後に右翼に回っていた新田に代えて、守備固めに矢野勝嗣を送った。


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野球バー「たっちあっぷ」に飾られている当時の写真パネルの前で振り返る星子崇さん



直後。1死満塁から3番の本多大介が初球をとらえる。快音を残した打球は高く上がり、そのライト後方へ。だが、浜風で定位置近くまで押し戻された。


打球が落ちてくるまでの間、三塁走者の星子は冷静に考えた。「風があるから返球は伸びる。フライング気味にスタートを切ろう」。タッチアップを狙い、左足で三塁ベースを蹴った。およそ4秒後。滑り込んだ瞬間にノーバウンドの返球を受けた捕手のミットが触れた。「足の方が先」と思ったが、球審の両手は広がらない。アウト。そのまま倒れ込み、拳を振り下ろした。


サヨナラ勝ちを阻まれた熊本工は、十一回に3点を勝ち越され、敗れた。


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1点を追う九回裏、熊本工の沢村(右)が同点本塁打を放ち、星子と抱き合う



熊本に帰ると、「ちゃんと走ったのか」「回り込んだほうがよかった」「おまえのせいで負けた」などと非難の声が待っていた。同級生は気を使って星子の前では決勝の話はしなかった。それから10年後。反抗的な態度を謝ることができないまま、田中久幸監督は病気で59歳で亡くなった。


転機は13年末。星子のもとを、旅行で熊本に来ていた松山商の矢野が共通の知人の紹介で訪れた。あの日、生還を阻んだ右翼手だ。立場は違えど、互いに「奇跡」の当事者であることが重荷となった人生を語り合った。後輩の甲子園出場にも興味がなくなるほど野球から遠ざかっていた星子の心が動く。「一生、背負っていこう」。半年後、熊本市内に野球バー「たっちあっぷ」を開いた。


16年4月に熊本を大地震が襲うと、星子は「県民に元気を」と立ち上がった。当時のメンバーを集め、秋に藤崎台県営野球場で20年前の決勝の再戦を企画した。「バックホーム」の再現では、矢野の返球より先に星子が肉離れした足を引きずりながら本塁へ。みんなが笑顔で迎えてくれた。


いま、胸を張って言える。「あの試合、あのワンプレーがあったから今がある。おれの人生の原点」だと。22年前の夏、本塁上から見上げた光景はいつまでたっても色あせない。(山口裕起)


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「一球の怖さ」を伝えたいという星子崇さん




ほしこ・たかし 1978年、熊本市出身。小学4年から野球を始め、熊本工卒業後は松下電器(現パナソニック)で2年半プレーした。現在は熊本市中央区で野球バー「たっちあっぷ」を経営。熊本工野球部の青年部OB会長を務める。



 

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