東京の品川駅から歩いて数分のところにある、グランドプリンスホテル新高輪。そこの大宴会場「飛天」は、有名人の結婚披露宴や、テレビの歌謡祭の会場として知られる。
けれど、文化の日は舞踏会の会場になる。ことしの11月3日も、正装をした1千人を超える男女が、中央を囲む形で集まった。
中央に、社交ダンスのプロたちがつぎつぎに出てくる。音楽のリズムにあわせて数分踊り、さーっと退場していく。
ワルツなどを華麗に舞う「ボールルーム部門」、そしてルンバなどを激しく踊る「ラテンアメリカン部門」。
2部門それぞれ、優勝をかけた、1次予選から決勝まで12時間にわたる闘い。優勝すれば賞金1千万円と世界大会への切符、ゲットである。
「バルカーカップ」
それが、この大会の名称だ。バルカーは東証1部上場の工業用シールなどのメーカー。大会に特別協賛企業として資金を出しているので、冠がつく。
午後6時半、準々決勝の前、タキシード姿の社長が、ひな壇に立った。
「ぜひ、ここから世界に羽ばたいて下さい」
こうあいさつした社長の名は瀧澤利一(たきさわとしかず)、58歳。創業者である祖父、父につぐ3代目社長である。
バルカーの役員は、瀧澤から執行役員まであわせて15人、そのうち11人がダンスをする。さらに、東京や奈良などの事業所では、週に1回、社員たちがプロの講師にダンスを教えてもらっている。
いわば、「踊りましょう」な会社である。なぜそうなったのか。すべては8年まえ、瀧澤がダンスを習うことから始まるのだが……。彼はダンスに関心がなかった。それどころか、軽蔑していたのである。
作業員を山に連れ戻す
東京に生まれた瀧澤は、幼いころ、創業の地である大阪から遊びにくる祖母、つまり初代社長の妻に寝床でささやかれた。「立派な社長にならなあかん、頼むでえ」。それが睡眠学習になったのか、いい経営者になることしか考えない少年に育った。
たとえば部活選び。高校時代はラグビー、大学でアメリカンフットボール。相手と激しくぶつかりあって体を鍛え、チームの仲間と勝利に向かう連帯感と不屈の精神を身につけた。
大学を卒業し、大手ゼネコンに入る。志願して、岐阜のダム建設現場へ。
〈人を動かすことを学ぶぞ〉
現場の作業員たちへの給料は、週払い。金曜日にカネを手にした作業員たちは、山を下りて街に出る。休み明けの月曜日、現場にもどって来ない作業員が何人もでる。
そこで、瀧澤の出番である。作業員がいそうなところを回り、山に戻るよう説得し、軽トラの荷台に乗せて山に戻るのだ。
現場生活を3年積み、瀧澤は学んだ。説得に必要なのは、作業員一人一人への「思いやり」だと。瀧澤は信じることができた。言葉を交わさなくてもいい「以心伝心」というものを。
大手商社でも修行。1995年、日本バルカー工業(現バルカー)の取締役になる。翌96年、社長をしていた父が病で逝き、36歳で社長に。
当時の「東証1部最年少社長」を待っていたのは、金融危機だった。そのあおりで、バルカーは赤字に転落。瀧澤は、国内工場の売却、およそ3割の人員削減を断行した。
事実上のオーナー会社にとって、社員は家族のようなものである。身を削る思いでリストラに踏み切った瀧澤は2000年、社員とともに進むことを宣言しようと考えた。
必要なのは企業理念だ、と思った。「価値の創造と品質の向上」という基本理念を実現するために、10項目の行動指針をつくった。その一項目に、これを掲げた。
「チャレンジ精神にあふれた『学習と成長』へのこだわり」
これが、瀧澤をダンスの世界に導くのである。
「ダンスに決まってるでしょ」
大阪に大切な取引先があり、そこの女性社長が社交ダンスをしていた。瀧澤は10年ほど前、発表会に行って彼女のダンスを見た。見事だった。そして、彼女が出演する発表会に行くようになった。
ある日、彼女が言った。
「いかがですか?」
「いかがって何を?」
「ダンスに決まってるでしょ」
「私がするはずないじゃないですか」
40代の半ばをすぎた瀧澤の半生に、ダンスのダの字はない。そして、大学生だったころを思い出した。入っていたアメフト部は、雨の日は体育館での練習になる。同じ体育館で、ダンス部の部員たちも練習している。瀧澤は軽蔑していた。
〈あいつら、チャラチャラしやがって。邪魔だったよなあ〉
しばらくたったある日、また、同じように「いかがですか?」と誘われた。同じように「するはずない」と断った。
発表会に行き始めて2年ほどしたある日、あの女性社長に言われた。
「バルカーの行動指針に『チャレンジ精神あふれる云々(うんぬん)』ってありますね。ところで、ダンスをしたことがありますか?」
「あるわけないじゃないですか」
彼女はニヤリ。そして、言った。
「一度もチャレンジしたことがないのに、イヤだイヤだばかり。そんな社長が、会社の行動指針にチャレンジを掲げていていいんですか?」
一本とられた、と瀧澤は覚悟を決めた。
「体験レッスンだけは受けます。だから、もう何も言わないで下さい」
彼女はダンス人脈をフルに使い、東京の女性講師3人を紹介してきた。そのうちの一人の体験レッスンを受けることに。服装は自由、と聞いた。Tシャツとジーパンで行くことにした。体験すればいいんでしょ。
土曜の夕方。教室にいた人たちは、きちっとした格好をしていた。好奇の視線を浴びつつ、よれよれの「おじさん」は、女性講師に導かれた。
あっというまの20分だった。痛くてきついアメフトやラグビーとは違う世界に、うっとり。
〈ダンスってこんなにいいものだったんだ。私は間違っていた〉
その場で靴を買い、週1回のペースで教室に通い始めた。
先生の塚田真美。国内屈指の実力者である彼女の指導は厳しかった。たとえば、1時間のレッスン中、ルンバの歩き方だけをたたきこまれた。「うまくなって」という思いは、以心伝心でビシビシと瀧澤に突き刺さった。
瀧沢は、のめりこんだ。鏡を見てはポーズをとる。廊下など平らなところで、ステップやターン。1996年の大ヒット映画、周防正行監督の「Shall we ダンス?」、そのワンシーンと同じことをしている自分に気がついた。
このやりきった感は……
ダンスを始めて2年ほどたった。あの女性社長、再登場である。
「瀧澤さん、まだ?」
「何がまだですか?」
「発表会です」
「お客さんの前で踊るのは、ぜったいイヤです」
女性社長はニヤリとして言った。
「発表会に出たことがないのに拒否。バルカーのチャレンジ精神……」
「分かりましたよ」
講師の塚田と練習を重ね、衣装もつくる。発表会の本番。ひと組前が踊る横のカーテン裏で待つ。観客は200人はいる。頭の中が真っ白になった。横にいる塚田に聞いた。
「先生、出るときは右足からでしたっけ、左足からでしたっけ」
「好きにしなさい」
名前を呼ばれた。塚田とふたり、舞台に出る。ルンバに合わせて踊る。体が覚えていた。3分終了、拍手を浴びる。このやりきった達成感、充実感は何なんだ? 仕事では経験できないぞ。よし、役員たちに勧めよう。
「Shall we dance?(踊りましょう)」
でも、瀧澤がそうだったように、みーんな拒否。あの手を使った。
「うちの行動指針を知ってますね。チャレンジもしないなんて役員としてまずいんじゃないの?」
役員たちも、瀧澤と同じ道をたどり、ダンスにのめりこんでいった。常務執行役員3人は言う。
ダンス歴3年半の青木睦郎(63)は、「新しい世界を知り、大げさですが人生観が変わりました」。
ダンス歴2年半の櫻井慎也(55)は、「ビジネスで社交ダンス経験がある顧客と知り合うと、一気に距離を縮められます」
そして、ダンス歴約1年の森田信利(56)は「やれば出来ることを証明したい。そう思う自分になれました」。
役員だけが楽しむのは、社員たちに申し訳ない。週1回、日本各地のおもな拠点で、プロの講師を招いての社員向けのダンス教室を開いている。
バルカーは、ダイバーシティー(多様化)経営を進めている。職場の同僚、別の職場の社員、障がい者社員、外国人社員。お互いが通じ合わなければ、多様化は絵に描いた餅である。
「思いやる心、言葉が通じなくても以心伝心で分かろうとする気持ち。それらを身につけるのに、ダンスはうってつけ」と瀧澤。結果として、瀧澤が学生時代にしていたラグビーやアメフト、そして大学を卒業してから働いたダムの現場で培ったものに通じる。
日本からスターを
会社をあげてダンスをしていると、ダンス界の抱える課題も見えてくる。
200万人を超えていたとみられるダンス人口は、少子高齢化の影響などで今や140万人とも言われる。教室も減っている。
バルカーは2014年、ダンスへの恩返しをしようと、子どもたちや視覚障がい者の競技会に協賛し始めた。15年、プロの日本一を決める大会に協賛金を出し、バルカーカップが始まった。今年の大会の優勝賞金は1千万円だが、前回より200万円アップした。世界大会に出場する日本代表にもっと輝いてもらうために。
「賞金を有効に使って世界に名がとどろく成績を収めてほしい。スター選手が出れば、日本のダンス人口が増える」と瀧澤。
不謹慎と言われるかもしれないが、大人になると、異性の手に堂々と触れられるのはダンスぐらいなもの。ときめきたいから始める、でもかまわないと瀧澤は言う。
「続けるうちに、何とも言えない充実感を味わえます。さあ、みなさんも、Shall we dance?」
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中島隆(なかじま・たかし) 1963年生まれ。朝日新聞編集委員。大学時代に応援部員として神宮球場で活動していたこともあってか、ただいま「中小企業の応援団長」を勝手に自称中。手話技能検定準2級取得。著書に「魂の中小企業」(朝日新聞出版)、「ろう者の祈り」(同)など。(編集委員・中島隆)
バルカーってどんな会社?
本社は東京都品川区。東証1部上場で、グループの社員は1700人余り、年商約475億円(2018年3月期)。1927年に大阪で創業。この10月、社名を「日本バルカー工業」からバルカーに変えた。
機械にある配管のつなぎ目などから流体や気体が漏れないようにする「工業用シール」が得意で、半導体、化学、医療、自動車などさまざまな分野向けに出している。日本各地に営業所があるほか、タイやベトナム、アメリカにグループ会社を展開。