80歳での殿堂入りは、遅すぎたともいえる。これまでもわずかな票差で殿堂入りを逃しており、「そのうち入れるだろうとは思っていましたが……。でも、実際に入ると、殿堂はすごいメンバーばかり。今日は、一世一代の晴れ姿です」。
野球殿堂入りに立浪氏と権藤氏 高野連元会長の脇村氏も
短い現役生活ながら、その輝きは強烈だった。ルーキーから35勝、30勝で2年連続最多勝。登板数は69試合、61試合で、その2年間はチームの試合数のほぼ半分に登板したことになる。「権藤、権藤、雨、権藤」の流行語も生んだ。
しかし、酷使の代償は大きく、3年目以降は「故障で苦しいことばかりだった」。その経験が、指導者としての骨格となった。投手コーチ時代は、いつも投手を守る側だった。酷使させないため、監督と衝突することもあった。
1998年、監督就任1年目の横浜で、投手の分業制を確立させて優勝を遂げた。「あの時の胴上げが、一番印象に残っているかな」と笑顔で振り返った。
中日の背番号「20」の先輩でもある杉下茂さん(93)が、祝福スピーチでユーモアを交えて権藤氏をたたえた。「昔は投手をつぶして名監督になった人もずいぶんいた。選手寿命が一年でも延びるように、投手の分業制をいち早く実践したのが権藤君です」
立浪氏「大きい人には負けたくない」
同じく野球殿堂入りを果たした立浪和義氏(49)。173センチ、70キロ。プロ野球選手としては小柄な体格で、歴代8位の2480安打を放った。スピーチでは「大きい人には負けたくない。体が小さい子どもたちの目標にされるようにと全力で頑張った」と、22年間の現役生活を振り返った。
1987年秋のドラフト1位で中日入り。1年目から遊撃を守り、リーグ優勝に貢献。新人王にも輝いたが、プロとしての自信を得たのは3年目だった。「2年目にけがをした。この体でやっていくには体力をつけないとと痛感した」。猛練習で1軍に定着した3年目。打率は初めて3割を超えた。
現在、野球解説者として活躍する一方、子どもたちに野球を教える。体が小さい子には「根気よく、自分が決めたことはやり通す。それで気持ちも強くなる」と伝えている。
2013年のワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表の打撃コーチも務めた。「勝負の世界に戻りたいと思った。もう一度、ユニホームを着て戦いたい」。8月で50歳。闘志は衰えていない。(鷹見正之)
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ごんどう・ひろし 1938年、佐賀県出身。鳥栖高から社会人野球のブリヂストンタイヤを経て、61年に中日入り。1年目から69試合に登板(先発44試合)して35勝19敗、防御率1・70で最多勝と最優秀防御率を獲得。同時に新人王と沢村賞を受賞した。リーグ最多の32完投、12完封の活躍で、投球回429イニング3分の1は現在もセ・リーグ記録(2リーグ分裂後では最多)。62年も30勝17敗で2年連続最多勝を獲得したが、その後は登板過多の影響などから成績を落とし、野手転向などもしたが69年で引退。投手では実働5年で通算82勝60敗、防御率2・69。引退後は解説者を経て中日、近鉄、ダイエー(現ソフトバンク)などのコーチを歴任。98年に横浜(現DeNA)の監督に就任し、チーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一を達成した。2017年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表の投手コーチを務めた。
たつなみ・かずよし 1969年、大阪府出身。大阪・PL学園高で主将として87年に甲子園春夏連覇を果たした。1987年秋のドラフト1位で中日入り。1年目に新人王に輝き、高卒新人では史上初めてゴールデングラブ賞に選ばれた。03年にセ・リーグ最年少の33歳10カ月で2000安打を達成。4度のリーグ優勝や07年の日本一に貢献した。通算487二塁打は歴代1位。通算2586試合、2480安打、171本塁打、1037打点、打率2割8分5厘。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回受賞。