戦前、熊本県南部の須恵(すえ)村(現あさぎり町)に滞在しながら、村を調査した米国の社会人類学者の夫妻がいた。日米開戦で米国政府は対日政策のために調査に注目、戦後の占領政策にも影響を与えたが、夫妻の存在はいまの世で広く知られていない。なぜなのか。
シカゴ大などで社会人類学を学んだ20代のジョン・エンブリーは、日本語が堪能な妻エラ、幼い娘とともに1935(昭和10)年に来日。全国各地の20カ所を超す候補地から、村民1600人余りの規模が調査に適し、協力者が見込める須恵村を選び、1年間貸家に滞在した。
方言で「はじあい」と呼ばれる、田植えや道普請などの自発的な協同活動をはじめ、少数の世帯でつくる「組」や「ぬしどり」(任期制の世話人)による自治システムなど、村の特徴を調査。宴会で球磨焼酎に酔いながら、性的な歌や踊り、おおらかな性愛の様も聞き取った。社会や家族の構造、教育、宗教や年中行事など総合的な調査は人類学者による戦前唯一の日本農村の研究となり、エンブリーは帰国後、『日本の村 須恵村』(39年)を刊行。エラは『須恵村の女たち』(82年)で女性のネットワークに注目した。
ライターの田中一彦さん(71)=福岡市=は、町に数年間住み込んで夫妻の調査や足跡をたどる中、村を愛し、偏見の目で日本を見なかった夫妻の姿を確認した。
田中さんは西日本新聞でパリ支局や東京支社編集長、編集局次長などを歴任。関心を抱いていたブータンと須恵村の姿が重なり、退社後の11年から3年弱、あさぎり町に住みこんだ。自転車に乗って50を超す祭礼や婚礼、葬儀などを回り、夫妻を知るお年寄りらに話を聴いた。「今年で刊行から80年になるが、部落や祭りを運営する『組』などの社会構造は変わっていなかった。一方、女性の生き方は変わり、夫妻が描いたような宴会の様子はありませんでした」。米国の大学にある2千ページを超す膨大なフィールドノートも読み込んだ。
田中さんは一昨年、『忘れられた人類学者(ジャパノロジスト) エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉』(忘羊〈ぼうよう〉社、地方出版文化功労賞)を出版。昨年12月の続編『日本を愛した人類学者 エンブリー夫妻の日米戦争』(忘羊社)は、日米開戦後の夫妻の動向や、米国の対日政策と人類学者らの関係に焦点を当てた。
日米開戦は、夫妻の帰国から5年後。調査は数少ない日本の情報として注目され、占領政策の参考書に使われた。エンブリーは戦時中、複数の政府機関を渡り歩き、日系人の強制収容所で人種的偏見や差別を持ち込まず、待遇改善を訴えた。
だが、戦後は占領政策に加わらず、東南アジア研究に軸足を移す。戦争で米国の日本研究は飛躍的に進んだが、日本を特異な民族とみる学者がいる一方、エンブリーは日本異質論を唱える自民族(自文化)中心主義を批判。GHQの占領に異議を唱える一方、民衆による民主化を期待し、FBI(連邦捜査局)の監視対象になったという。
なぜ占領政策に積極的に関与し…