(29日 オリックス5―3西武)
オリックスにとって特別な日だった。
4月29日は、23年前、球団に初の日本一をもたらした故・仰木彬監督の誕生日。選手も、首脳陣も「ブルーウェーブ」のユニホーム、それも、同監督が背負った72番で試合に臨んだ。
当時のオリックスは、スマートで洗練されていた。イチローや、田口(現野手総合兼打撃コーチ)、平井(現投手コーチ)らを擁し、起用された若手が期待に応える「仰木マジック」もさえた。
それを思い起こさせるかのように、躍動感に満ちていた。四回にドラフト7位の新人・中川(東洋大)の2点二塁打で追い上げムードをつくると、八回には、25歳の主砲・吉田正が右翼席中段まで運ぶ勝ち越し2ランを放った。
仰木さんといえば、近鉄の「昭和最後」の試合を指揮したことでも知られる。逆転でのリーグ優勝がかかった1988年(昭和63年)のペナントレース最終戦、ロッテとのダブルヘッダーで涙をのんだのは、今もファンの語りぐさだ。
阪急ブレーブスを買収し、1989年(平成元年)に加わったオリックスは、なにかと球界で話題になった。震災に見舞われた神戸の象徴として、仰木監督のもとで95年にリーグ優勝、翌年に日本一になる一方、2004年オフの球界再編でも「主役」に。仰木さんも率いた近鉄を吸収統合し、「オリックス・バファローズ」と姿を変えた。
平成は、パ・リーグが地域密着を掲げて、かつてない人気を得た時代だった。ただ、関西の2球団が統合したオリックスのAクラスは、たった2度。優勝もあれから22年も遠ざかる。
パ・リーグ球団にとって平成最後となる試合を制し、オリックスは連敗を3で止めた。令和は借金5の最下位で迎えるが、「仰木さんの背番号で負けられない。この勝ちが令和への弾みになる」と西村監督。天国の名将にかたく誓った。(大坂尚子)