一塁の走者が盗塁を狙ってスタートを切った。三木東高校(兵庫県三木市)の主将で捕手の山口稜真(りょうま)君(3年)はすかさず二塁へ送球し、走者を刺した。父・孝文さんが好きな息子のプレーだった。
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6月16日、神戸市内での練習試合。そのユニホームの下には、孝文さんの結婚指輪をつけたネックレスがあった。高校野球をする姿を直接見ることができなかった父に、グラウンドの景色を見せてあげたい――。週末の試合や練習では必ず身につけている。
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電機メーカーで働き、野球好きな孝文さんと母・美紀さんの間に一人っ子として生まれた。小学1年で地元のソフトボールチームに入り、孝文さんはチームの指導を始めた。「キャッチボールせえへん?」。父が仕事から帰ると自分から声をかけ、ネットを張った庭で汗を流した。試合前に緊張で体調が悪くなると、「大丈夫」と背中をさすりながら声をかけてくれた。
小学6年のころ、孝文さんはひどい腹痛に見舞われた。精密検査の結果、横行結腸がんで、最も病状が進んだ「ステージ4」だった。リンパ節への転移もあった。ただ、「お父さんなら大丈夫」。そう思っていた。
孝文さんは手術を受け、職場に復帰。稜真君が所属するもう一つのソフトボールチームが地元の大会で優勝した時は、抗がん剤の点滴をつけたまま駆けつけた。稜真君が中学で野球部に入ってからも、体調がいいと練習試合に来てくれた。吐き気などの副作用も「忘れるわ」と、息子のプレーに目を細めた。だが、その後、肝臓や肺への転移が見つかった。
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稜真君が三木東高校に入学後、孝文さんの病状は悪化。秋に抗がん剤治療をやめ、緩和ケア病棟に入った。稜真君は母と一緒に医師から説明を受けた。「年内、持つかどうか」。鼓動が速くなり、動揺した。ただ、余命を聞きたがらない父の前では普段通りに接し、父の好きな野球の話をした。
練習後は毎日のように病院に向かった。練習試合の朝は父からLINEで「頑張れよ!」とメッセージが届く。どこか照れくさく、「おう」としか返せなかった。父は母が撮影した試合の動画を見るのを楽しみにしていた。
12月に入ると、孝文さんは一時帰宅が許された。ただ、車の乗り降りや階段の上り下りは介助なしではできなかった。「どんどん痩せていくな」。以前は恰幅(かっぷく)が良かった父の体の軽さに稜真君は驚いた。「これ、お前にやるわ」。家から病院へ戻る際、父が手を差し出した。大切にしていた腕時計だった。もう家には帰れないことを気付いているのかも――。「ありがとう」。それだけしか言えなかった。
孝文さんは、打撃に苦手意識がある息子へトレーニングバットをクリスマスに贈ろうと美紀さんに頼んでいた。稜真君は家で母からバットを受け取った後、病室に行くと父からは「打てるようになれよ」と言葉をかけられた。
年が明けると、孝文さんは立ち上がることも難しくなった。鎮痛剤や鎮静剤で意識がもうろうとする中、一時的に意識が戻った。「稜真、ありがとう」とつぶやいた。その後、呼びかけに応じなくなったが、1月7日、試合のビデオを流すと父の指が少し動いた。稜真君は動かなくなった父の手の指からそっと結婚指輪を外した。「よう頑張った。楽になってもいいで」と手を握った。その日の夕方、孝文さんは息を引き取った。48歳だった。
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「父に心配させないような生き方をしたいと思っております」。稜真君は葬儀で遺族代表あいさつを務め、決意を語った。夏が終わり新チームになると主将を任された。ただ、部員は7人しかおらず、昨秋や今春の県地区大会は吉川高校との合同チームで戦った。
部員の少なさからチームの士気が上がらない時期もあったが、素振りや苦手な送球など、昼休みも使って自主練習に率先して取り組み、周りにも声をかけた。主将の姿に部員たちも時間を見つけてより自主練習をするようになった。春に1年生が8人入り、夏の兵庫大会は三木東高校単独で出場する。
孝文さんが亡くなってからまもなく1年半になるが、美紀さんは「稜真と夫はいまでも野球でつながっています」と言う。
「努力は大切やぞ」。稜真君は父と2人で練習している時、父がよく口にした言葉を覚えている。努力できることが才能だと胸を張って言える人になってほしい。不器用に見えた息子に、父はそう願っていたと思う。だからこそ、「自分はここまで頑張ってきたという結果を父に見せたい」。その思いを胸に、最後の夏に臨む。(武田遼)