東京電力福島第1原子力発電所事故の被害が続く福島県で、「公害の原点」とされる水俣病から学ぼうという動きが進んでいる。事故から4年を前に、水俣病関係者が福島の被災地を訪れるなど相互の交流も。熊本県水俣市の患者、緒方正実さん(57)は、公害病の認定などを巡り住民間の分断が続いた水俣病の歴史を振り返り「同じ過ちを繰り返さないで」と訴えている。
壁が抜けたままの建物、土台だけの住宅。生い茂った雑草に埋もれるように、さび付いた車や漁船が横たわる。海に目をやると、遠くに第1原発の鉄塔が見えた。1月、福島県浪江町の請戸地区。町全域が避難区域で人が住めなくなったため、津波の傷痕が今も残る。
「言葉がないですね」。眼前に広がる光景に緒方さんがつぶやいた。「津波被害と、この地からの避難。住民は2つの苦しみを味わったのか」
1956年に公式確認された水俣病。チッソ水俣工場の排水に含まれるメチル水銀で汚染された魚介類を食べた沿岸住民が、手足の感覚障害や視野狭窄(きょうさく)を発症した。チッソはしばらく排水をやめず、国も対応を怠り被害は拡大した。
緒方さんは「戦後復興を目指すなか、経済を優先して水俣病は起きた。豊かさを求める中で起きた原発事故と根っこはつながっている」と訴える。「福島は自分たちのためでなく東京のために電気をつくっていた。その犠牲になった人たちは、どんなに悔しかっただろう」
国は水俣病を公害認定後、厳格な認定基準を設定。認定から漏れた人々には場当たり的な対応で被害の「線引き」を繰り返したため、被害者は分断され続けた。
福島でも住んでいた場所の放射線量や第1原発からの距離で賠償額が決まり、住民同士のあつれきが生まれている。「住民同士が争ってしまったのが水俣病の過ち。決して繰り返さないで」。浪江町に隣接する南相馬市での講演で緒方さんはこう訴えた。
講演を聴いた相馬市の高校2年、小泉結佳さん(17)は「震災や放射線への考え方は、クラスメートや家族でも違う。水俣病と重なった」。講演を企画し被災地を案内した南相馬市の高村美春さん(46)は「水俣病から学ぶとともに、水俣の人にも福島を知ってほしい」と話した。〔共同〕