学友と休み時間を過ごす学習院初等科6年生時の天皇陛下=1946年2月
3月30日午後。天皇陛下はお忍びで東京都内のある場所を訪れました。いつになくリラックスされた表情で、お付きの人数も少ないように見えました。実は、会場で待ち受けていたのは、学習院初等科時代の友人方。この日は約10年ぶりとなる同窓会だったのです。
天皇陛下が東京・四ツ谷の初等科に入学したのは1940年4月。当時の朝日新聞の紙面を調べてみると、この年の年明けから、天皇陛下の入学に関する記事が続いていました。
1月21日付夕刊には「皇太子さまと机を並べる光栄 学習院に入学願書激増」という見出し。「志願者は近来にない多数」で、「前某大臣の令孫(れいそん)がイの一番に申込んだ」などと紹介。前の年は100人に満たなかったが、この年は約130人が応募したと記しています。当時の熱気が伝わってくるような内容です。
3月20日付朝刊には「皇太子様御用に 御門を新設」の記事。校舎は天皇陛下の入学を前に新築され、道路を挟んだ東宮仮御所から歩いて通う陛下専用に門がつくられたそうです。
「皇太子様に奉仕する 大任の主管教授 学習院 秋山氏に決定」という記事も。主管とは学習院で担任教諭のことを指しますが、秋山さんは陛下の「東組」を担当するため、担当していた学年を途中で変更した異例の人事だったといいます。陛下は6年間変わらず「東組」でしたが、秋山さんが一貫して主管を務めました。
同級生は68人で、陛下の「東組」、「西組」の2クラスがありました。驚いたのは、「東組」の同級生全員の氏名が新聞で紹介されていたことです。見出しは「光栄の御級友選ばる 感激する34名」。この日の社会面の一番大きな記事で、「誕生日も同じ 仁井田博士の令孫」「算術が大好き 鈴木琢二君」など、5人の同級生の喜びの声や家庭環境なども紹介しています。個人情報の管理が厳しくなった今では考えられないことですが、皇室の方々の交友関係を取材する担当記者としてはうらやましさも感じました。
天皇陛下や同級生方は戦争末期、疎開生活も共にしました。最初の疎開先は5年生だった1944年5月、静岡・沼津。7月にサイパン島が陥落すると、栃木・日光の田母沢御用邸に再疎開しました。
戦況が悪化した45年7月には栃木・日光湯元の南間(なんま)ホテル(現在は廃業)へ。ここで終戦を迎え、天皇陛下はホテル2階の8畳間で昭和天皇の玉音放送を聞きました。このころは食糧事情も一段と悪化していて、陛下や同級生は近くの戦場ケ原などでおかずになる木の実や野草を夢中で摘んだそうです。
同級生の一人、眞田尚裕さん(82)によると、こうした労苦をともにしただけに仲間の結びつきがとりわけ強く、定期的に同窓会を開いて旧交を温めてきたといいます。
皇太子時代は2年に1回、少なくとも5年に1回は集まっていたそうですが、歳月を経るなかで集まる機会も減り、今回は約10年ぶりの開催となりました。
参加者は陛下を含めて24人で、アメリカから参加した人も。最初に記念撮影をした後、名前のあいうえお順に三つのテーブルに分かれ、陛下が順番に場所を移りながら懇談しました。出席できなかった級友の近況、みんなで相撲をとったこと、そして疎開時の思い出。陛下はこの同窓会を楽しみにしていたそうで、側近らが入らない友人だけの空間で、約100分間にわたって話が弾んだといいます。
会の最後、天皇陛下は同級生を前にあいさつに立ちました。予定になかったことでしたが、陛下はこうした場が設けられたことへの感謝の気持ちを伝えたそうです。
同級生の大半はすでに一線を退いていますが、天皇陛下は公務や宮中祭祀(さいし)に多忙な日々が続いています。眞田さんは「なにせ我々がリタイアするころに、陛下は現役(=天皇陛下に即位)になられた。今後もこうした同窓会を定期的に開いて、陛下にリラックスしたひとときを過ごしていただけたら」と話していました。