宝塚線脱線事故で兄を亡くし、看護師になった上田篤史さん=神戸市中央区の市立医療センター中央市民病院、井手さゆり撮影
姿を変えつつある事故の現場で、遠く離れた空の下で……。大切な家族を失った人や傷ついた人たちは、それぞれの場所で思いをはせた。兵庫県尼崎市のJR宝塚線(福知山線)で起きた脱線事故から25日で11年。事故と向き合い、生きる意味を問い続ける営みは続いている。
特集:宝塚線脱線事故11年
宝塚線事故から11年 景色一変した現場、遺族らが祈り
■救急医療担う看護師の道へ
上田篤史さん(26)=神戸市中央区=は線路脇に設けられた献花台で手を合わせて、そばにあるマンションの北西角の柱に花を供えた。二つ年上だった兄・昌毅さん(当時18)が乗っていた快速電車の2両目が脱線した後、「く」の字のように巻き付いた場所だ。
高校1年だった2005年4月25日。朝に発生した事故のことは夕方まで知らなかった。午後5時ごろ、部活動を終えて手に取った携帯電話には、着信が何件も入っていた。自宅に帰ると、父・弘志さん(61)が現場を映すテレビを指さして、泣いていた。「兄ちゃんがいたんや」
遺体安置所の体育館(尼崎市)で棺の中に横たわる兄のほおは冷たかった。マイペースの兄。短気で、すぐ落ち込む弟。性格は正反対だったが、不思議と気が合う2人だった。夜遅くまで宿題に追われる自分に兄は「無理せんと、はよ寝ろよ」と声をかけてくれた。そんなやり取りはもう二度とできない。「何で、こんなことに」。怒りと悲しみに交互に襲われ、涙がとめどなく流れた。
その後、友だちから「兄弟おるの」と聞かれても、「一人っ子」と答えた。兄の話をするのがつらかったからだった。「兄ちゃん、ごめんな」。心の中で謝る一方で、使命感のような思いが募っていた。「兄の死を無駄にしない。命を救える仕事に就きたい」
父はJR西日本に怒りをぶつけ、母は泣き暮らしていた。救急医療にたずさわる看護師になれば、もし父と母の体調が悪くなっても気づけると思った。兵庫県立大看護学部に進み、神戸市立医療センター中央市民病院に就職した。